祈りの回廊

祈りの回廊 2026年春夏版

国づくりの“現場”を歩く-飛鳥・藤原-

飛鳥・藤原 全景
飛鳥・藤原 全景
写真提供:世界遺産「飛鳥・藤原」登録推進協議会HP
今、目の前に広がる静かな景色。ここはかつて、日本の国づくりを担った人々が、日々集い、語り、働いた場所です。 遺跡は失われた過去の痕跡ではなく、先人たちの営みが刻まれた「生きた現場」なのです。

国のしくみが動き出す

飛鳥時代は、豪族主導の政治から天皇中心の律令国家へ向かう重要な過渡期でした。当時の日本は、唐や朝鮮半島諸国の先進的な制度をそのまま模倣するのではなく、実情に合わせて独自に作り替えながら導入しました。都や外交など国の根幹に関わる意思決定を受け、役人が文書によって命令を伝達し、実務として実行に移しました。政治的な決断と行政の実務が連動して動く国家の仕組みは、まさにこの時代に形づくられました。

役人たちの「都ライフ」

都に集った役人たちは、天皇や豪族による意思決定を実務として行う存在でした。飛鳥宮跡からは多くの木簡が出土しており、命令の伝達や物資管理、記録作成など、行政の具体的な動きが読み取れます。役人たちは宮殿周辺の役所を仕事場とし、文書を作成し、運び、処理することで政治を現実のものとしていました。勤務は早朝から日中を中心に行われたとみられ、限られた時間の中で業務が進められました。

時間の管理始まる

役人たちが限られた時間で仕事を進めるためには、共通の時間認識が欠かせませんでした。『日本書紀』には、斉明天皇六年(660)に設置された漏刻ろうこく は、皇太子・中大兄皇子が造り、時を知らせたと記されています。水の流れで時を測る漏刻は、役人の勤務や儀礼の進行を支え、国家運営に時間管理が組み込まれていく重要な一歩でした。

まつりごとの場、仕事の場である宮

飛鳥の宮は、天皇が政を決する場であると同時に、周辺の役所では、役人が日々の実務を処理する仕事場でもありました。遺構の重なりからも政治の変化に応じて空間が更新されてきたことが分かります。やがて藤原宮では、内裏・大極殿・官衙 かんが が計画的に配置され、制度に基づく行政を支える都市構造が遺跡から確認されています。

時間を管理する場と執政の場

飛鳥水落遺跡

写真提供:世界遺産「飛鳥・藤原」登録推進協議会HP

飛鳥水落みずおち遺跡

飛鳥水落遺跡は、石組みの構造や導水施設が確認されており、漏刻(水時計)に関連する遺構と考えられています。

  • 高市郡明日香村飛鳥
  • 0744-54-5600(明日香村文化財課)
飛鳥宮跡

飛鳥宮跡

飛鳥時代の宮殿跡です。政治の中枢として機能しました。遺構が重なって検出されていることから、天皇の代替わりごとに宮殿や執務空間が繰り返し更新されてきたことが分かっています。

  • 高市郡明日香村岡
  • 0742-27-2054(奈良県世界遺産室)
年 表
欽明天皇7年(538年) 仏教公伝:百済の聖明王から欽明天皇に仏像と経典などが献上され、 日本に仏教が正式に伝来した※諸説あり、552年説も
用明天皇2年(587年) 丁未の乱:仏教受容をめぐり崇仏派の蘇我馬子が排仏派の物部守屋を滅ぼし、 蘇我氏の権力が確立した
崇峻天皇元年(588年) 飛鳥寺(法興寺)の造営開始 蘇我馬子が発願した日本最初の本格的寺院の建設が始まる
崇峻天皇5年(592年) 崇峻天皇が蘇我馬子により暗殺される
推古天皇が即位:日本史上初の女性天皇が誕生した
推古天皇元年(593年) 厩戸皇子(聖徳太子)が摂政となり、推古天皇を補佐して政治を行うこととなった
推古天皇4年(596年) 飛鳥寺が完成:日本最初の本格的な仏教寺院が完成し、仏教文化の中心地となった
推古天皇11年(603年) 冠位十二階制定:氏姓に関係なく個人の才能と功績により位階を授ける新しい制度を導入した
推古天皇12年(604年) 十七条憲法制定:官人の心構えを示した道徳的規範で、仏教・儒教の思想を取り入れた
推古天皇15年(607年) 小野妹子を遣隋使として派遣:「日出づる処の天子」の国書を持って隋に派遣された
推古天皇30年(622年) 厩戸皇子(聖徳太子)死去
推古天皇36年(628年) 推古天皇崩御
舒明天皇2年(630年) 第1回遣唐使派遣:犬上御田鍬らを唐に派遣し、新たに成立した唐との国交を開始した
飛鳥岡本宮へ遷宮(飛鳥宮の開始)
舒明天皇13年(641年) 舒明天皇崩御
皇極天皇元年(642年) 蘇我蝦夷が今来(いまき)に双墓を造営
大化元年(645年) 乙巳の変:中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を飛鳥板蓋宮で暗殺し、蘇我本宗家を滅ぼした
皇極天皇が譲位、孝徳天皇即位
大化の改新始まる:公地公民制や班田収授法など中国的な律令制度の導入を開始した
難波宮への遷都
白雉4年(653年) 中大兄皇子らが難波宮から飛鳥に戻り、孝徳天皇は難波に残された
白雉5年(654年) 孝徳天皇崩御
斉明天皇元年(655年) 斉明天皇即位:皇極天皇が重祚して再び天皇となった(史上初の重祚)
斉明天皇6年(660年) 皇太子である中大兄皇子が漏刻を設置する
斉明天皇7年(661年) 斉明天皇崩御:百済救援のため九州に滞在中、朝倉宮で崩御した
天智天皇2年(663年) 白村江の戦い
天智天皇6年(667年) 近江大津宮に遷都:中大兄皇子(天智天皇)が近江に新都を造営し遷都した
天智天皇7年(668年) 天智天皇即位:中大兄皇子が正式に即位した
天智天皇10年(671年) 天智天皇崩御
天武天皇元年(672年) 壬申の乱:大海人皇子(天武天皇)が大友皇子(弘文天皇)を破り、古代最大の内乱に勝利した
天武天皇2年(673年) 大海人皇子が壬申の乱で勝利し、天皇に即位
天武天皇9年(680年) 薬師寺造営開始:天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気平癒を祈願して飛鳥に建立を開始した
朱鳥元年(686年) 天武天皇崩御
持統天皇4年(690年) 持統天皇即位:天武天皇の皇后が正式に即位し、天武天皇の政策を継承した
持統天皇8年(694年) 藤原京に遷都:日本最初の本格的な都城制の都が完成し遷都した
持統天皇11年(697年) 持統天皇が譲位、文武天皇即位
大宝元年(701年) 大宝律令制定:刑部親王と藤原不比等らが編纂した日本最初の本格的な律令が完成した
慶雲4年(707年) 文武天皇崩御
元明天皇即位:文武天皇の母が即位し、平城京遷都の準備を進めた
和銅3年(710年) 平城京遷都:元明天皇が奈良の平城京に遷都

仏教と僧侶−国家を護る「祈り」

仏教は、6世紀に大陸から伝来し、飛鳥の地で受け入れられながら広がっていきました。国家の安定や王権の正統性を祈る思想として重視され、飛鳥寺をはじめとする寺院が次々と建立されます。最初の出家者は善信尼 ぜんしんに ら女性の僧であり、仏教受容の担い手となりました。僧侶たちは祈祷や儀礼を通して国の安定を支え、仏教は律令国家の精神的な柱となっていったのです。
華厳宗元興寺(塔跡)の道昭坐像(※1)

仏教黎明期 飛鳥時代の僧侶

女性の僧尼に続き、飛鳥では大陸出身の僧や渡来系の学僧が、仏教受容の基盤を築きました。高句麗出身の慧慈えじや百済出身の慧聡 えそう は、仏教の教えや儀礼を伝え、宮廷での信仰を支えたとされています。また百済の観勒かんろく は、仏教とともに暦法・天文・地理などの知識をもたらし、国家運営に必要な学びの土台を整えました。 やがて日本人僧侶も学問として仏教を担うようになります。道昭どうしょう は白雉4年(653)に入唐し、玄奘三蔵から法相(唯識)を、慧満えまん から禅の教えを学びました。経典や学問体系を携えて帰国後、飛鳥寺周辺で禅院を営んだと伝えられます。同時期の僧・義淵ぎえん は、飛鳥から奈良へ続く南都仏教の中心的存在として、弟子の渡唐や後進の育成を通じ、興福寺や薬師寺へと学びを受け継ぎました。 飛鳥は、日本で最初に本格的な仏教寺院が営まれた地であり、飛鳥寺をはじめ、多くの寺院が集積していました。これらの寺は、信仰の場であると同時に、僧侶が学び、教えを伝える拠点として機能していたと考えられます。いまは礎石や遺構のみが残る場所も少なくありませんが、かつての飛鳥では、法会や写経、人材育成といった営みが行われ、仏教文化の基盤が形づくられていきました。
(※1)華厳宗元興寺(塔跡)の開門は、令和8年3月末まで不定期開扉、同年4月より週末土日拝観開始となります。
飛鳥寺

飛鳥寺

蘇我氏が建立した寺院で、日本における本格的仏教寺院の始まりを示します。豪族が仏教を受け入れ、国家形成へ向かう最初期に建立されました。

  • 高市郡明日香村飛鳥 682
  • 0744-54-2126
大官大寺

写真提供:世界遺産「飛鳥・藤原」登録推進協議会HP

大官大寺(大官大寺跡)

飛鳥・藤原地域で最大規模の寺院で、国家が直接建立した最初の官寺とされます。発掘で金堂・講堂・塔の礎石が確認され、国家主導の仏教文化を伝えています。

  • 奈良県高市郡明日香村大字小山
  • 0744-54-5600(明日香村文化財課)

渡来技術者が支えた都づくり

渡来人は、飛鳥に先進的な生産・建設技術をもたらしました。仏像や仏具の鋳造に関わる金属加工、瓦葺き建築や基壇造成に用いられた土木技術、さらに天理砂岩や、二上山凝灰岩、花崗岩などを切り出し、加工し、運搬する石工技術が伝えられています。これらの技術は、宮や寺院、古墳、石造遺構の成立を支えました。こうした渡来系技術者の一人に、飛鳥寺の釈迦如来像制作に関わった仏師・鞍作止利 くらつくりのとり がいます。飛鳥の文化は、こうした高度な技術によって形づくられていきました。

キトラ古墳

写真提供:世界遺産「飛鳥・藤原」登録推進協議会HP

キトラ古墳

東アジア最古級の天文図をもつ壁画古墳です。版築による墳丘築造や天文知識に、中国・朝鮮半島の土木・学術技術の影響がみられます。

  • 高市郡明日香村大字阿部山
  • 0744-54-5105(キトラ古墳壁画体験館 四神の館)
檜隈寺跡

写真提供:世界遺産「飛鳥・藤原」登録推進協議会HP

檜隈寺跡くまひのでらあと於美阿志おみあし神社じんじゃ

檜隈は渡来系氏族が居住した地域で、檜隈寺は東漢氏が氏寺として造営した仏教寺院です。瓦積基壇など百済系建築技術が用いられています。

  • 高市郡明日香村檜前
  • 0744-54-5600(明日香村文化財課)
田邉征夫 先生 インタビュー
田邉征夫先生
公益財団法人
元興寺文化財研究所所長
田邉 征夫 氏
1944 年三重県生まれ。奈良文化財研究所所長等を歴任し、考古学研究と文化財保存に長年携わる。
日本の国づくりが試行錯誤された痕跡が眠っている、飛鳥・藤原の地域。発掘調査研究に長年携わってきた元興寺文化財研究所所長の田邉征夫氏に、この地の価値と、土の中の遺跡をどう伝えていくのかを聞いた。
◎先生は長年、発掘調査研究に関わってこられました。発掘によって、過去の姿はどのように見えてくるのでしょうか。
発掘は、最初から全体像が見えているわけではありません。特に日本の古代建築は掘立柱ですから、建物そのものは残っていません。柱が立っていた痕跡なのか、抜き取られた跡なのか。土の違いを一つひとつ見極めていくところから始まります。
大官大寺の発掘では、焼失倒壊した金堂の軒垂木の突き刺さった痕跡を発見するなどし、最終的には基壇幅54メートルに及ぶ巨大な建物であったことがわかりました。また、回廊などの足場穴がともに焼けていることなどから、中門・回廊・塔が未完成で、建設途中に焼失したこともわかりました。

◎「飛鳥・藤原の宮都」は現在、世界遺産登録を目指しています。先生はこの地域のどこに本質的な価値があるとお考えですか。
登録を目指す構成資産は、建造物が現存しない「純粋な考古遺跡」が中心になっている点が特徴です。海外の遺跡は石で造られ、立体的に残っていることが多いですが、日本の遺跡は土の中に埋まった平面的なものが中心です。
天皇の代替わりごとに宮が移動していた時代から、七世紀になると飛鳥周辺に宮殿が集中し、政治の拠点が定まり始めます。その変化の過程が、遺構の重なりとして地下に残っている。こうした場所は、世界的に見ても非常に珍しいのです。

◎その「土の中に残る遺跡」を、先生ご自身は現場でどのように読み解いてこられたのでしょうか。
私たちが若い頃、当時の奈良文化財研究所所長の坪井清足さんが「一寸先は闇や」とよく言っていました。本当に掘ってみないと分からない、という意味です。飛鳥でもそうですが、木造家屋が中心の日本の遺跡は、一般に地上に構築物が残りません。土の中にしか痕跡がない遺跡では、柱が立ったまま腐ったのか、抜き取られたのか、とにかく土の違いを見分けるところから始まる。考古学の基本は、そうした土の見方を身体で覚えることにあります。

◎私たち一般の立場からは、土の中に残る遺跡をどのように受け止めればよいのでしょうか。
正直に言って、平面的な遺跡は分かりにくい。それは事実です。だからといって、安易に一つの「正解の復元像」を示すことには慎重であるべきだとも思っています。復元は理解を助ける一方で、誤ったイメージを固定してしまう危険もあります。ただ、何もイメージできないままでは、興味や関心も生まれない。復元建物などもそうですが、CGや模型などを使って複数の可能性を示しながら、「考える余地」を残すことが重要でしょう。議論そのものが、遺跡理解の入口になります。
飛鳥では完成した姿を示すというよりも、「こういう可能性が考えられる」という幅を示すことが大事だと思います。模型でも、ひとつの案に決めるのではなく、違う専門家が描いた案を並べて比べたり、考え続けていく姿勢そのものを見せる。そうしたプロセスを共有することで、遺跡を「考える対象」として受け止めてもらえるのではないでしょうか。

◎飛鳥は、渡来人の技術や仏教受容の面でも、非常に国際的な地域だったと言われます。
その通りです。仏教だけでなく、建築、土木、天文、暦法など、多様な知識や技術が大陸からもたらされました。飛鳥の寺院や宮殿は、そうした国際的な交流の結晶です。また、日本が外来文化をそのまま模倣したのではなく、自分たちの社会に合わせて組み替えた痕跡が、遺跡としても残っている。そこに大きな意味があります。

◎最後に、これから飛鳥・藤原と、私たちはどう向き合っていくべきでしょうか。
世界遺産に登録されることが到達点ではありません。むしろ、そこからが本当のスタートです。認知が高まり、人が訪れ、関心が集まる。その先で、まだ分かっていないことをどう解き明かしていくか。問いを広げるための出発点であり、その意識を共有することが、飛鳥・藤原と向き合う上で何より大切だと思います。