祈りの回廊

祈りの回廊 2023年春夏版

釈迦如来その時代と変遷

仏教公伝の時に日本に伝来した釈迦信仰。
時代の移り変わりにより日本の仏像史の中でさまざまな造形をもって表現されてきました。
奈良に現存する様々な時代の釈迦如来像にスポットを当て、ご紹介します。

写真:三好和義

飛鳥寺
釈迦如来坐像(飛鳥時代・銅造・重文)

高市郡明日香村飛鳥 682

0744-54-2126

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仏教公伝と釈迦像

釈迦仏金銅像一軀しゃかぶつこんどうぞういっく幡蓋若干・経論ばんがいじゃっかん きょうろん若干じゃっかん巻を献ず。」「西蕃にしのあだしくに の献ぜし仏の貌端厳おきらぎらし。」(「日本書紀」欽明十三年十月条より)

日本に仏教が伝えられたのは6世紀半ば頃と考えられています。『日本書紀』によると欽明13(552)年に百済(※1)の聖明王から欽明天皇へ仏像や仏具、経巻が献上されたと記されています。このとき献上された仏像は金銅製の釈迦像であり、その顔はきらきらと輝いていたといいます。

釈迦とは、仏教の開祖であるゴータマ・シッダールタのことです。実在の人物をモデルとすることにより、伝記にもとづくいろいろな釈迦像が生まれました。釈迦信仰は最も早く日本に伝来し、釈迦像は仏像の基本となりました。奈良県にはどのような釈迦如来像が伝わっているのでしょうか。時代を追ってみていきましょう。

飛鳥寺釈迦如来坐像(飛鳥大仏)

仏教公伝後、その受容をめぐって抗争が起こりました。『日本書記』には、崇仏派の蘇我馬子が廃仏派の物部氏を破り、法興寺(飛鳥寺)を造立し始めたと記されます。『日本書記』の記述には脚色があるとも言われていますが、発掘調査によると6世紀終わり頃に飛鳥寺が成立していたことは間違いないようです。

飛鳥寺の本尊釈迦如来像は、日本に現存する釈迦如来像の中でもっとも古い仏像のひとつです。飛鳥大仏と呼ばれ、多くの人々に親しまれてきました。像高は275㎝で、いわゆる丈六像(※2)と呼ばれるものに匹敵します。大仏の造立時期については諸説あります。『日本書記』の止利仏師によって丈六金銅仏が金堂に安置されたという推古天皇14(606)年、『元興寺縁起』に仏像を造り終えたと記される己巳(609)年などです。いずれにしても飛鳥大仏は日本の丈六仏像の最初期の仏像です。しかし大仏は鎌倉時代の初めに火災に遭って焼損し、作られた当初の姿は一部分を除いてほとんど残っていないと考えられます。像をみると全身の至るところに補修の痕がみえます。

近年の科学調査(※3)により、大仏の額から眼にかけての辺り、鼻、頬、顎を含むおおかた、螺髪の一部、また右手てのひらの上半分や指の大部分が飛鳥時代のものであることが分かりました。しかし、損傷は甚大であり、これらの部分のみから当初の姿の全容を想像することは困難と言わざるをえません。一方で破損のたびに修理が行われてきた結果、大仏は当初の姿を残しつつ飛鳥時代から変わらない場所に今も存在しています。飛鳥の地で仏前に手を合わせるとき、1400年以上もの間、守り伝えてきた人々の思いも伝わってくるようです。

(※1) 古代の朝鮮半島西部にあった国家
(※2) 経典に定められた釈迦の背の高さ。一丈六尺の略。約4.8メートル。坐像の場合はその半分の大きさ。
(※3)【藤岡穣ほか「飛鳥寺本尊銅造釈迦如来坐像(重要文化財)調査報告」『鹿園雑集』2017年】の見解にもとづく

日本の仏教・仏像造像の黎明期 飛鳥・奈良時代の釈迦仏

写真:(株)飛鳥園

法隆寺
金堂釈迦三尊像(飛鳥時代・銅造・国宝)

世界最古の木造建築として知られる、斑鳩町法隆寺の金堂には、日本の仏像の歴史を語る上で欠かすことのできない仏像が安置されています。中央の釈迦三尊像は光背の銘文によれば、推古31(623)年に聖徳太子とその后の菩提を弔うために止利仏師によって作られました。アーモンド形の眼とアルカイック・スマイルがつくる独特な表情は飛鳥大仏に通ずるものです。中国や朝鮮の仏像に学びつつ、日本独自の工夫も織り交ぜる完成度の高い像として多くの人々を魅了します。

法隆寺生駒郡斑鳩町法隆寺山内 1-1

0745-75-2555

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写真:(株)飛鳥園

東大寺
誕生釈迦仏立像(奈良時代・銅造・国宝)

東大寺ミュージアムには右手を上げて天を指し、左手は地を指した誕生釈迦仏が安置されています。この像は生まれてすぐに「天上天下唯我独尊」と唱えたという釈迦降誕をあらわしています。肉づきのよい豊満な身体や胸や腕にあるくびれ、柔らかな表情はいかにも幼児らしい姿です。4月8日に営まれる花祭り(灌仏会)で用いられたもので、奈良時代の作と考えられる像です。通常の誕生仏が10〜20cmであるのに対し、この像は約50cmあり、大仏の開眼供養に合わせて特別に作られた可能性が考えられます。

奈良市雑司町 406-1

0742-22-5511

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時代を経て表現が移り変わる
様々な時代の釈迦仏

写真:(株)飛鳥園

室生寺
釈迦如来坐像(平安時代初期・木造・国宝)

釈迦如来坐像は客仏として室生寺弥勒堂に伝わりました。現在は寶物殿に安置されています。一本のカヤの木から彫り出された身体は重厚感があり、存在感に溢れています。大小のひだが交互に繰り返される翻波式ほんばしき衣文や、穏やかで美しい表情は魅力的で、数ある平安初期彫刻の中でも特にすぐれています。

宇陀市室生 78

0745-93-2003

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写真:(株)飛鳥園

常覺寺じょうかくじ
釈迦如来立像(平安時代後期・木造・重文)

この釈迦如来像は、五條市黒淵(旧西吉野村)にあった崇福寺そうふくじの本尊でしたが、現在は常覺寺へ伝わっています。施無畏印せむいいん与願印よがんいんをつくる一般的な釈迦如来像です。頬を張る丸い顔や伏目がちの眼、浅く整った衣文線は、平安時代後期の仏像の典型的な特徴です。

五條市西吉野町黒淵 1321

0747-32-0129

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写真:(株)飛鳥園

西大寺
釈迦如来立像(鎌倉時代・木造・重文)

この像は、西大寺の中興開山である興正菩薩叡尊上人の命により、仏師善春らが嵯峨清涼寺に赴いて建長元(1249)年に摸刻された「清涼寺式せいりょうじしき釈迦如来像(※4)」 のひとつです。髪は縄のように巻き、衣文は何重にも重なります。像内には多くの結縁者の交名が納められ、沢山の人々が釈迦像を信仰していたことが分かります。

奈良市西大寺芝町 1-1-5

0742-45-4700

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(※4)京都・清涼寺の釈迦如来立像は10世紀に中国・宋からもたらされました。この像は釈迦の在世中にその姿を写した像として信仰を集め、「清涼寺式釈迦」と呼ばれる模造が制作されました。

写真:金峯山寺

金峯山寺
釈迦如来立像(鎌倉時代・木造・県指定文化財)

蔵王堂には一風変わった釈迦如来立像が伝わります。粒の大きい螺髪らほつに長い爪は、当時の中国・宋の影響を強く受けています。近年の修理の際、像内に小動物の骨灰が塗られていることが判明しました。あまり類例がなく、特別な意味があるのかもしれません。

吉野郡吉野町吉野山 2498

0746-32-8371

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写真:(株)飛鳥園

伝香寺
釈迦如来坐像(安土桃山時代・木造・市指定文化財)

伝香寺は、桃山時代に筒井順慶の菩提を弔うためにその母が再興した寺院です。天正十三(1585)年に建てられた本堂内に安置される本尊釈迦如来像(※5)は、奈良町地域に今も町名が残る下御門しもみかど周辺で活躍した、下御門仏師宗貞の作です。その端正な作風は奈良の伝統を受け継ぐものといえるでしょう。

奈良市小川町24

0742-22-1120

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(※5)毎年3月12日と7月23日のみ公開

釈迦にみる
仏教美術の基礎知識 文/大河内智之(奈良大学准教授)

仏教とは、紀元前五世紀ごろ(諸説あり)にゴータマ・シッダールタによって開かれた宗教です。シッダールタは現在のインドとネパールの国境付近、シャーキャ族(釈迦族/釈迦国)の王子で、シュッドーダナ(浄飯王)とマーヤー(摩耶)夫人の間に生まれ、青年の時に出家して沙門しゃもん(僧侶のこと)となり、その後菩提樹のもとで悟りを得て、ブッダ(目覚めた人)となります。仏(佛)とは、ブッダに漢 字をあてた「仏陀」を略したものです。

仏陀となったシッダールタは、釈迦族の聖者という意味の釈迦牟尼むにや、釈尊、釈迦如来などと呼ばれます。如来とは「タターガター=一切を知る智慧に到達した者」を意訳した尊称です。

如来は頭上にお椀を重ねたような肉髻にっけいをあらわし、身には薄い衣(衲衣のうえ大衣だいえ)をまといます。手のポーズは印相といって、仏の種類によって変わりますが、釈迦如来の場合は右手を開いて前に見せる施無畏印、左手を開き前に差し出す与願印が比較的多いといえます。

今回ご紹介している釈迦如来像のほとんどもこの印相ですが、他に説法印や定印、降魔印などバリエーションが豊富です。それは、さまざまな経典の中で説かれる人々の苦悩に向き合う聖者としての釈迦如来のイメージや、説法を行いあらゆる者を教導する救済者としての働きを、視覚的に映し出したものといえます。まさしく「仏像」とは、経典に基づき釈迦の姿を表す中で生まれた、信仰の思いを造形化した象徴表現であり、それゆえに千年の時を超え人々を魅了する優れた芸術性をも、その身にまとっているといえるでしょう。

奈良は、日本で仏教が初めて花開いた地です。本誌で紹介している飛鳥寺像、法隆寺金堂像をはじめ、飛鳥時代から桃山時代までの奈良の釈迦如来像は、時代ごとに幾度も根源としての釈迦信仰に立ち返り、また飛鳥・奈良の仏像を古典として振り返りつつ表された、日本仏教史・仏教美術史の展開を体感することのできる作例群といえるでしょう。他にも釈迦如来にまつわる重要な文化財が奈良には多数伝わります。

寺院の塔は、釈迦が埋葬された墳墓であるストゥーパ(卒塔婆)を表したものです。そのため心礎などに仏舎利(釈迦の骨)が納められます。和銅4(711)年に建てられた日本最古の木造塔である法隆寺五重塔の初層には、釈迦の逝去から、遙か未来に弥勒仏が出現するまでの物語が多数の塑像(土製の仏像)によって表されています。このうち北面の涅槃像土は、亡くなり横たわる釈迦の周囲に、嘆き悲しむ僧たちが集まっている光景です。絵に描かれた涅槃図が日本各地に多数残されていますが、これこそが日本最古の涅槃像なのです。

釈迦は、あまりに偉大な存在であったため、没後すぐにはストレートにその姿は表されず、悟りを開いた場所である菩提樹や、足跡だけの表現などにより、象徴的に存在が暗示されていました。次第にストゥーパなどに釈迦の生涯の物語(仏伝)が表されるようになって、仏像が成立していくのです。

薬師寺には、そうした釈迦表現の初期的様相である、足裏に千輻輪せんぷくりん双魚そうぎょなど吉祥相を示した仏足石の、日本最古の作例が伝わります。天平勝宝5(753)年に、インドの鹿野園から唐・長安の普光寺にもたらされた図様を元に作られた由緒正しいものです。

奈良で釈迦の美術をたどれば、まさしくインドから日本に到達した仏教文化の真髄をたどることとなるでしょう。釈迦を偲んで巡る奈良の旅、ぜひお勧めします。

大河内 智之

大河内 智之

奈良大学文学部文化財学科准教授。専門は日本美術史、日本彫刻史。博士(文学)。全国の仏像公開や展覧会の情報を提供するウェブサイト「観仏三昧」を主催。日本の仏像ブーム隆盛の一翼を担う。

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