祈りの回廊

祈りの回廊 2021年秋冬版

日本の近代化を推し進めた経済人

 2024年、20年ぶりに紙幣の顔が一新されます。一万円札の新しい顔は渋沢栄一。「日本資本主義の父」とも呼ばれる渋沢は、元は一橋慶喜の家臣でしたが、慶喜が江戸幕府第15代将軍になったことをきっかけに幕臣となりました。慶喜の弟・昭武のパリ万博見学に随行して渡航し、鉄道や軍事施設、製鉄所、造幣局、銀行などを見学。江戸期のうちにヨーロッパの進んだ資本主義経済を学びました。しかし、この渡航中に大政奉還が起き、江戸幕府は幕を閉じることになりました。
 帰国後、明治新政府に招かれた渋沢は、1869(明治2)年に民部省(1871(明治4)年大蔵省に統合)に入省。銀行制度や租税制度などの設計に貢献します。1873(明治6)年に退官し、その後は実業家となり、紡績会社や鉄道、電気など数々の会社を設立しました。渋沢が設立に関与した会社は約500にも及んでいます。
 このほか、「道徳経済合一(道徳的な公利公益と、経済は両立すべき)」の理念を持つ渋沢は社会福祉や教育、文化財保護の分野でも運営に携わり、寄付を募る、寄付をするなどして約600もの事業に関与しました。
 奈良に残る渋沢ゆかりの地をご紹介します。

渋沢栄一

(国立国会図書館ウェブサイトから転載)
1840(天保11)年生まれ、1931(昭和6)年没。欧州諸国から近代的な技術・知識を日本に取り入れ、明治維新以降の近代経済の礎を築いた。

渋沢栄一ゆかりの地

国立国会図書館デジタルコレクション『聖徳太子一千三百年御忌法用記念写真帖』より

法隆寺

100年前に行われた聖徳太子千三百年御遠忌法要は当時26万人の人出を集めたそうです。当時の様子は『聖徳太子一千三百年御忌法用記念写真帖』から垣間見ることができます(国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能)

生駒郡斑鳩町法隆寺山内1-1

0745-75-2555

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写真提供:奈良市 奈良県立図書情報館今昔写真WEB蔵

平城宮跡

「奈良大極殿址だいごくでんあと保存会」により保存運動と土地買収が進められましたが、1922(大正11)年に平城宮跡が国の史蹟に指定されたことにより保存会は記念碑を建てて解散しました。記念碑は今も、現在の近鉄線の踏切の近くにあります。

奈良市二条大路南3丁目5番1号

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南都銀行本店

1926(大正15)年に建てられた奈良県内では珍しいギリシア様式の近代建築物。1997(平成9)年に国の登録有形文化財になっています。正面のイオニア式※円柱に施された「羊」のレリーフが目を引きます。
※ 古代ギリシア建築の柱の様式のひとつ。

奈良市橋本町16

0742-22-1131

渋沢栄一が関わった今に伝わる奈良での事業

 渋沢は全国で数多くの銀行の設立指導や援助をしています。奈良では旧郡山藩主・柳沢保申やすのぶが発起人となり、渋沢の指導の下、第六十八国立銀行が設立されました。この銀行はその後 ㈱六十八銀行となり、1928(昭和3)年に他3つの銀行と合併して、現在の ㈱南都銀行になります。
 経済だけではなく、奈良の信仰・文化面でも大きな役割を果たしています。今年2021年は聖徳太子の没後1400年にあたり、法隆寺で御遠忌法要が営まれましたが、100年前の1300年の法要には、渋沢が関わっています。1917(大正6)年、法要の費用の工面に悩んでいた関係者から協力を求められた渋沢は、聖徳太子千三百年御忌奉賛会の副会長を引き受けました。1918(大正7)年の5 月には丸の内の東京銀行倶楽部で奉賛会発会式を、1920(大正9)年には上野公園の竹の台陳列館で記念展覧会を開催。太子の功績を都内の人々にも広く伝えることができました。予定の倍以上の寄付金も集まり、1921(大正10)年、4月11日から17日まで、法隆寺で盛大な聖徳太子千三百年御遠忌法要が行われました。
 同時期、渋沢は平城宮跡の保存にも関わっています。棚田嘉十郎や溝辺文四郎らが保存活動をしていたことは知られていますが、渋沢はその後1913(大正2)年に結成された「奈良大極殿址保存会」の発起人の一人です。この保存会は、大極殿跡に記念碑、朝堂院跡に標石28基を設置し、遺跡の場所を明らかにし保存することを目標にしていました。渋沢は評議員となり趣意書や勧誘状に名を連ねたほか、自身も寄付しています。
 他にも、1924(大正13)年には、後醍醐天皇を祀る吉野神宮の奉賛会の顧問に就任し、寄付の募集に尽力しています。


天川村の鉱山も手掛けた五代友厚

 江戸時代から明治にかけて大阪で活躍した経済人・五代友厚は、渋沢栄一と同時代の人物です。元は薩摩(鹿児島県)藩士ですが、1857(安政4)年長崎で航海、測量、数学などを学び、1865(慶応元)年には渡英、江戸期から外交を経験しています。「商社合力」という、それまでのように家単位で事業を行うのではなく、家を超えて資本・人材を結集する事業形態を提言するなど、近代的な経済・経営の知識を身につけていました。
 1868(慶応4)年、五代は明治新政府の外国事務掛となり、大阪在勤になります。大阪港の開港、大阪造幣局の誘致などを行いました。1869(明治2)年に退官後は大阪を中心に活躍する実業家として、為替、銀行、商工会議所、株式取引所など様々な事業に携わりました。
 五代は特に鉄鉱業に力を入れており、鉱山王とも呼ばれました。開鉱や買収などで全国に26か所の鉱山を所有しましたが、最初の鉱山は奈良の天和鉱山でした。1871(明治4)年、江戸期には幕府の直営だった天川村和田の銅山を入手したのです。五代は地元の和田小学校のために建物を提供したり、寄付をしたりしています。
 また、五代の妻・豊子の実家は田原本町です。豊子の兄、森山茂は五代と同じころに外国事務局で外国官書記として務めていました。茂が1863(文久3)年の天誅組の変に加ったため幕吏に追われ、豊子ら兄弟は安養寺の床下にかくまわれたという話が伝わっています。

五代友厚

(国立国会図書館ウェブサイトから転載)

五代友厚ゆかりの地

安養寺

五代の妻・豊子は田原本町八尾出身。五代が34歳の再婚で、豊子は19歳でした。安養寺は豊子の実家(萱野家)の菩提寺でもあります。

磯城郡田原本町大字八尾40

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てんかわ天和の里

2002(平成14)年に廃校になりましたが、現在地元の有志が集まり交流拠点として運営しています。五代の生涯を詳しく紹介する教室もあります。

吉野郡天川村大字和田477

080-1470-8845