ふくよかな唇、鋭くない鼻、
―すべてわれわれが見慣れた形相の理想化であって、異国人らしいあともなければ、
また超人を現わす特殊な相好があるわけでもない。
しかもそこには神々しい威厳と、
人間のものならぬ美しさとが現わされている。
- 聖林寺
- 桜井市下 692
- 0744-43-0005
- 詳細
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- 桜井市下 692
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『古寺巡礼』は、哲学者であり、文学者である和辻󠄀哲郎が大正7年(1918)に、奈良の古寺を巡った際の印象を綴った旅行記です。二十代の和辻󠄀の目で見た古都奈良の建築や仏像、絵画など
の美しさ、それを見た心の内の感動を、若さと情熱であふれた文章で綴りました。
この旅行記は、今まで崇拝対象だった仏像を、美術品として鑑賞するという視点を広く知らしめるきっかけになり、古寺ブームの先駆けとなりました。
タイトル
古寺巡礼著者
和辻󠄀哲郎発出
大正7年(1918)8月から大正8年(1919)1月まで、岩波書店の雑誌『思潮』に連載奈良を歩き書き記した あの作家この作家
明治・大正・昭和時代、多くの文筆家が奈良を訪れ、その感動を書に記してきました
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「兎に角奈良の故都は 日本の古文明を残りなくあらはしたもので、地形といひ風景といひ、古美術と言い、わが国の誇りと為て決して恥ずかしからぬものがあります。」
DATAタイトル
奈良の故都
著者
田山花袋
発出
明治37年(1904)-
「古代芸術の香高い所、そして美しい山水にかこまれた「奈良」という土地に対して、私はまあ、どれ位い憧憬の心を持っていた事でしょう。」
DATAタイトル
奈良に遊びて
著者
宮本百合子(当時19歳)
発出
大正7年(1918)-
「月光菩薩像。そのまえにじっと立っていると、いましがたまで木の葉のように散らばっていたさまざまな思念ごとそっくり、その白みがかった光の中に吸いこまれてゆくような気もちがせられてくる。」
三月堂の金堂にてDATAタイトル
大和路・信濃路
著者
堀辰雄
発出
昭和18年(1943)姫は、ぢつと見つめて居た。
やがて、あらゆる光りは薄れて、雲は霽れた。
夕闇の上に、目を疑ふほど、鮮やかに見えた山の姿。
二上山である。その二つの峰の間に、
ありありと莊嚴な人の俤が、瞬間顯れて消えた。『死者の書』は、當麻曼荼羅縁起と中将姫伝説、二上山 に大津皇子が葬られた伝承に着想を得て書かれた、奈良時代を舞台にした小説です。折口は学生のころ當麻寺中之坊に滞在しており、構想中も長く滞在しました。
小説の中で、姫は春の彼岸の中日に、二上山に日が落ちたとき、尊い御仏のような俤びとの姿(大津皇子の亡霊)を見て、 裸の身を温めて差し上げたいと、蓮糸で曼荼羅を織り上げます。DATAタイトル
死者の書
著者
折口信夫(釈迢空)
発出
昭和14年(1939)『日本評論』1月号、2月号、3月号近代文学散歩
森鴎外 は軍医であり、小説家でした。54歳で陸軍を退いた翌年、帝室博物館総長を勤めました。 帝室博物館は宮内省所管の博物館のことで、現在の奈良国立博物館も含まれます。 鴎外は毎年秋に奈良を訪れ、正倉院宝物の点検や見学者の対応などを行いながら、古い寺々を巡っていました。 奈良国立博物館近くには、鴎外が利用した官舎の門が「鴎外の門」という名前で残っています。 また、鴎外が奈良滞在中に詠んだ短歌は「奈良五十首」として発表されており、正倉院や興福寺、十輪院などの名所が詠みこまれています。
鷗外の門
- 奈良市登大路町50番地(奈良国立博物館)
- 050-5542-8600(ハローダイヤル)
谷崎潤一郎は明治から昭和にかけて活躍した小説家です。関東大震災後に関西へ移住しました。
昭和6年(1931)に発表した『吉野葛』は、吉野の取材旅行をする主人公が、吉野を故郷とする友人の母恋を聞きながら、 吉野川沿いに旅をする随筆的小説です。
谷崎は日本の伝統文化や古典、風俗、風物などを織り込んでいく小説家で、この作品の中でも、菜摘地域の義経伝説や、 国栖地域の紙漉き、入之波 温泉などが描写されています。
吉野川
詳細
志賀直哉は明治から昭和にかけて活躍した小説家です。奈良に魅了され42歳から55歳までの13年間を奈良で過ごしました。特に随筆「奈良」では、 美点も欠点も両方を紹介した上で、「兎に角、奈良は美しい所だ」「奈良に帰りたくなる」と、惜しみない奈良への愛を記しています。
志賀が自らが設計したモダンな自宅には武者小路実篤や尾崎一雄など、多くの文化人や芸術家が訪ねました。 現在は志賀直哉旧居として見学できるようになっています。志賀直哉旧居
- 奈良市高畑町1237-2
- 0742-26-6490
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