祈りの回廊

祈りの回廊 2024年秋冬版

724年の即位から1300年 聖武天皇の足跡

奈良時代3代目の天皇、聖武天皇。発願し、建立された東大寺や、遺愛の品を納めた正倉院など、奈良には現在も聖武天皇にまつわる文物が多く残っています。2024年は聖武天皇の即位から1300年。聖武天皇の事績を今改めて紹介します。

おびと皇子誕生の時代

聖武天皇は、大宝元年(701)、第42代文武天皇と藤原不比等の娘・宮子の第一皇子として生まれました。名をおびとといいます。大宝元年(701)は、日本で初めて行政法・民法・刑法がそろった大宝律令が完成した年。翌年には中断されていた遣唐使が約30年ぶりに再開され、天武・持統天皇の時代以前から準備されてきた中央集権国家が、いよいよできあがろうとしていた時代でした。

奈良県五條市にある安生寺あんじょうじは、寺伝によるともともと国生寺こくしょうじという名前でしたが、藤原宮子が本尊の十一面観音菩薩に祈願し、首親王が安産で生まれました。このため寺名を安生寺と改称し、本尊は子安観音と呼ばれるようになりました。

❖ 平城遷都と即位

慶雲4年(707)、父の文武天皇が24歳の若さで崩御しました。このときの首親王はわずか7歳でした。文武天皇の母が元明天皇として即位し、和銅3年(710)には都が藤原京から平城京へと遷りました。首親王は元明天皇の時代に皇太子となりましたが、元明天皇の退位時にまだ15歳だったため、首の叔母にあたる氷高ひだか内親王が即位しました(元正天皇)。神亀元年(724)、元正天皇は首親王に譲位し、24歳で天皇に即位しました。

平城宮跡資料館 秋期特別展「聖武天皇が即位したとき。−聖武天皇即位1300年記念−」

会場:奈良文化財研究所 平城宮跡資料館
会期:10月22日(火)~12月8日(日)

※木簡は展示替えがあります。
 Ⅰ期10月22日(火)~11月17日(日)、Ⅱ期11月19日(火)~12月8日(日)

❖ 天平文化、花開く

飛鳥・藤原時代に伝来した仏教と遣唐使は、日本に新しい文化や技術、芸術をもたらしました。日本は、唐(中国)と、ローマ、西アジア、中央アジアとを結ぶシルクロードの終着点でした。ここには物が集まるだけでなく、民族と経済の交流が生まれる場所であり、非常に国際色が豊かな時代でした。

こうして外来した文化は、国家的な仏教政策と融合しながら、貴族社会を中心に日本独自の進化を遂げ、聖武天皇の時代の平城京で大きく花開きました。これを「天平文化」と呼び、美術や文学、建築など、後世の日本文化に多大な影響を与えました。

写真提供:奈良文化財研究所

平城京左京三条一坊二坪発掘調査出土木簡

2024年2月に新たに大量に発見された木簡。記載された年号「神亀元年」と「大嘗」から聖武天皇即位に伴う儀式、大嘗祭だいじょうさいに関わる木簡と考えられる。

❖ 新たな都に救いを求めて

一方で、聖武天皇の時代には社会不安が増大した時代でもありました。息子・もとい親王は1歳を迎える前に亡くなり、左大臣長屋王は冤罪で死に追い込まれました。疫病が大流行し、藤原広嗣ひろつぐの反乱が起こるなど、厄災が続きました。

聖武天皇は、仏教の力で国家安泰を得ようとしました。全国に国分寺こくぶんじ国分尼寺こくぶんにじの建立を命じ、天平15年(743)には、国分寺の総本山として大仏と寺を造る「大仏造立のみことのり」を発しました。良い都を求めて遷都を繰り返し、5年間で恭仁宮くにのみや(京都府木津川市)、難波宮なにわのみや(大阪府大阪市)、紫香楽宮しがらきのみや(滋賀県甲賀市)と次々と遷都を繰り返しましたが、天平17年(745)、再び平城宮に戻りました。

❖ 大仏造立

当初、紫香楽宮で造立されようとしていた大仏は、平城京に遷都したことにより、現在の東大寺の場所で作られることになりました。仏教を布教するだけでなく社会福祉事業も行い、民衆に人気のあった僧・行基が中心となり、大仏造立プロジェクトは進められました。

養老5年(721)建立の喜光寺(奈良市)の本堂は、大仏殿を建立する際に参考にしたという伝承から「試みの大仏殿」と言われています。現在の本堂は室町時代の再建であり、どの程度忠実に再現されたものであるかは不明です。

天平21年(749)、病床の聖武天皇は娘の阿倍内親王に譲位し、この頃に出家しました。3年後の天平勝宝4年(752)、大仏開眼供養が盛大に行われ、聖武太上天皇も参列しています。この4年後の天平勝宝8歳(※1)(756)に太上天皇は56歳で崩御。佐保山南陵に葬られました。

(※1)天平勝宝7〜9は、唐で「年」の代わりに「載」を使ったのに倣い、日本では独自に「歳」を使用していました。

❖ 遺愛の品を納める正倉院

聖武太上天皇の崩御後、光明皇太后は夫の冥福を祈り、太上天皇愛用の品々や薬草を東大寺の本尊・盧舎那仏(大仏)に奉納しました。それらの宝物を納めるための倉庫が「正倉院」です。校倉造あぜくらづくりの建物で国宝に指定されています。中に納められた宝物は太上天皇の品以外のものも含めて9000件近くあり、毎年秋に奈良国立博物館で行われる「正倉院展」で約60件が公開されます。正倉院宝物は種類も多彩で、そのすべてが国際色豊かな奈良時代の天皇家や国家にまつわる一級品です。日本の古代の姿を伝えるだけでなく、8世紀の世界文化をも伝える貴重な宝物なのです。

藤原宮跡

橿原市高殿町 他

0744-21-1114
(橿原市世界遺産登録推進課)

藤原宮跡の詳細はこちら

安生寺

五條市今井4丁目6-15

090-8753-2383
(安生寺護寺会)

恭仁宮跡

京都府木津川市加茂町例幣

0774-75-1232
(木津川市文化財保護課)

第二次大極殿

奈良市佐紀町

0742-36-8780
(平城宮跡管理センター)

般若寺の詳細はこちら

喜光寺

奈良市菅原町508

0742-45-4630

霊山寺の詳細はこちら

佐保山南陵

奈良市法蓮町1224

0744-22-3338
(宮内庁書陵部畝傍陵墓監区事務所)

正倉院

奈良市雑司町129

0742-26-2811
(宮内庁正倉院事務所)

※正倉院展は毎年10月下旬〜11月上旬に奈良国立博物館で開催しています。 令和6年(2024)の会期は10月26日㈯〜11月11日㈪です。

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寺伝に記された
聖武天皇

仏教に篤く帰依していたことで知られる聖武天皇には、正史にはない伝承も多く残ります。
奈良のお寺の寺伝には、聖武天皇の祈りの姿が見えてきます。

新薬師寺

天平19年(747)、聖武天皇の病気平癒を祈り、光明皇后によって創建されたと伝わります。かつては七堂伽藍が整った壮大な寺院で、特に金堂は東西約60 メートルで、薬師如来が七躰祀られていました。本堂(国宝)は創建当初のもので、天平建築様式が残っています。

奈良市高畑町1352

0742-22-3736

新薬師寺の詳細はこちら

慈眼寺じげんじ

聖武天皇の勅願により、観音堂に聖観音菩薩を安置したことが創建とされます。本尊の聖観世音菩薩は、聖武天皇が感得した観音の姿を刻んだものと言われており、「やくよけ観音(※2)」と呼ばれ、親しまれています。
(※2)やくよけ大法要の日のみ公開される秘仏。

奈良市北小路町7

0742-26-2936

慈眼寺の詳細はこちら

岩船寺がんせんじ

寺伝によると、天平元年(729) に、聖武天皇が出雲国不老山大社に行幸した際に霊夢があり、大和国鳴川の善根寺に籠居していた行基に命じ、阿弥陀堂を建立させたのがはじまりと伝わります。

京都府木津川市加茂町岩船上ノ門43

0774-76-3390

岩船寺の詳細はこちら

般若寺はんにゃじ

飛鳥時代に高句麗僧の慧灌(えかん)が創建した寺院。天平7 年(735) に聖武天皇が平城京の鬼門を守るため、「大般若経」を基壇に納め卒塔婆を立てたのが、寺名となりました。

奈良市般若寺町221

0742-22-6287

般若寺の詳細はこちら

霊山寺りょうせんじ

神亀5年(728)に聖武天皇の娘の阿倍内親王が病になった際、天皇の夢枕に鼻高仙人が現れ、「登美山の薬草湯屋の薬師如来を祈念すれば治る」とのお告げがあり、そのとおりにすると快癒しました。そこで天平6 年(734) 聖武天皇が大堂の建立を勅命したのがお寺のはじまりです。

奈良市中町3879

0742-45-0081

霊山寺の詳細はこちら

聖武天皇の仏教信仰
為政者の苦悩と祈り

奈良大学 文学部 教授
渡辺 晃宏

1960 年、東京都生まれ。奈良文化財研究所前副所長。専攻は日本古代史。主な著作 「平城京と貴族の生活」『岩波講座日本歴史3 古代3』(岩波書店)、「平城京1300年『全検証』」柏書房、「平城宮中枢部の構造─その変遷と史的位置」『古代中世の政治と権力』吉川弘文館、ほか多数

聖武天皇といえば、東大寺の大仏建立の詔を出すなど、仏教に篤い天皇という印象があります。どのような経緯でそうなったとお考えですか?

 仮説にはなりますが、長屋王の変が大きな影響を与えたと考えられます。平城京へ遷都せんと後、元明天皇や藤原不比等に後を託されたうちの一人が長屋王ですが、聖武天皇が即位してから5年後の神亀6年(729)、彼は謀反の嫌疑をかけられて自害に追い込まれました。これがいわゆる長屋王の変です。『続日本紀』の後世の記述で、この事件は冤罪だったことが示されています。長屋王の変後、聖武天皇と光明皇后は仏教に強く傾倒するようになりました。その後天平7年(735)と天平9年(737)の天然痘とみられる疫病で、新田部親王・舎人親王、そして藤原四子など、長屋王の変に関わった人物が相次いで亡くなります。当時、怨霊思想はまだありませんでしたが、長屋王の魂を慰めるためか、聖武天皇は長屋王の子供たちだけを選んで叙位じょいしています。救いを求め、聖武天皇夫妻はますます仏教への傾倒を深めていったのではないでしょうか。

 

聖武天皇はどんな人物だったと思いますか?

 聖武天皇の書いた『雑集ざっしゅう』を見ると、文字に神経質さを感じますが、彼は決してひ弱な人物ではなく、むしろ、強い意志を持っていたと思います。その意志があったからこそ、あれだけの大仏を建立できたのです。遷都を繰り返した理由が不明なために、彼が平城京から逃げたとする見方もありますが、私は複数の都を利用するビジョンがあったための遷都と考えています。恭仁、難波、平城のうち、2つの都を使用する複都制を試みたのではないでしょうか。しかし、畿外に位置する紫香楽を都にしようとしたことで、過度な負担がかかり反対され、「平城京で大仏を作りましょう」と説得されたのかもしれません。それでも、何とか大仏を完成させ、開眼法要を行い、願いを成就してから亡くなりました。

 聖武天皇は在位中に出家した初めての天皇です。当時の天皇は神に等しい存在でしたが、その天皇が出家するということは、神が仏に仕えることを意味します。聖武天皇の出家は、神仏習合が生まれるきっかけになったとも考えられます。この意味でも、聖武天皇は日本の思想史や文化史に非常に大きな影響を与えた人物といえるでしょう。

 

今年2024年の2月に、聖武天皇が即位した際の大嘗祭だいじょうさいに関わる木簡が発見され、大きなニュースとなりました。

 天皇の即位に伴う儀式である「大嘗祭」に関連する木簡が大量に発見されました。木簡の年号からも聖武天皇の大嘗祭に関わるものだと考えられます。一箇所から1000点以上も出土したのは、平城宮でも10年に一度の規模の発見です。できすぎた話ですが、今年(2024年)はまさに聖武天皇の大嘗祭から1300年の節目にあたる年です。今年発見されたことは本当に驚きました。

 今回、備中(現在の岡山県西部)の木簡が多く見つかりました。大嘗祭で大きな役割を果たす地域に「悠紀ゆき国」というものがありますが、『続日本紀』では悠紀国が備前(岡山県東南部)とされています。しかし、『続日本紀』は後世に完成したもので、実際には悠紀国が備中だったのではないかという新たな仮説も生まれています。

 木簡の洗浄はほぼ終わっているようですが、削屑の整理はまだ進行中です。今後も新たな発見が期待されます。

日本の思想史や文化史に非常に大きな影響を与えた人物といえるでしょう