栄華を極めた平安時代の貴族 藤原道長も金峯山(※1)へ。
藤原道長(966~1027)は平安時代中期の政治家。
藤原氏は、飛鳥時代に乙巳の変で功を成した中臣鎌足が天智天皇から藤原朝臣の姓を賜ったことが始まりの氏族です。鎌足の子・不比等は娘を皇太子(後の天皇)に嫁がせ、権勢を奮いました。
その子孫である道長も、娘たちを天皇や親王に嫁がせ、藤原氏の圧倒的な権力基盤を盤石なものにします。摂政や関白などの、天皇を補佐する要職を代々一族で独占するようになるのです(摂関政治といいます)。晩年の道長は次のような歌を詠んでいます。
この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の欠けたることも なしと思へば
(この世は私の世なのだと思う。この満月のように欠けたところがないように思える)
このように、栄華を極めた道長ですが、まだ政界の頂点を極める前、現在の京都府にあった平安京から、奈良県吉野郡にある金峯山を詣でています。当時、金峯山は弥勒菩薩が生まれる場所であり、登れば願いが達成できると信じられていました。
(※1)「金峯山」とは、吉野山から山上ヶ岳に至る聖地全体のこと
藤原道長の経筒(国宝)
金峯神社蔵(京都国立博物館寄託)
銅製で、表面には金が塗られた高さ36.4cm の経筒。500 文字余りの漢字を刻んでいます。日本最古の経筒で、山上ケ岳山頂の大峯山寺境内で他の埋納品とともに発見されたと伝わります。
金峯山埋経 藤原道長筆(重文)
五島美術館
道長が発願し、紺紙に金字で書写したお経。金銅の経筒に入れて埋納されていた。近年、行方不明だった一部が金峯山寺から発見されました。
御堂関白記(国宝)
陽明文庫蔵
藤原道長直筆の日記。金峯山に詣でた前後のことも記されています。世界最古の自筆の日記として、世界記憶遺産にも登録されています。
道長の金峯山詣『御堂関白記』より
寛弘4(1007)年
- 8月2日
- 出立
- 8月3日
- 大安寺(奈良市)に宿す。
- 8月4日
- 井外堂(天理市二階堂か)に宿す。
- 8月5日
- 軽寺(橿原市大軽町か)に宿す。
- 8月6日
- 壷阪寺(高市郡高取町)に宿す。
- 8月7日
- 観覚寺、現光寺(吉野郡大淀町の比蘇寺か)
を経て、野極(金峯山寺周辺か)に宿す。
- 8月8日
- 終日雨で留まる。
- 8月9日
- 登山にかかり、宝塔(吉野山の西行庵付近か)
で昼食、祇園に宿す。
- 8月10日
- 山上御在所の僧坊金照房に到着。
- 8月11日
- 供養法要を行う。
- 8月12日
- 下山
- 8月14日
- 平安京に帰京
藤原道長はどうして金峯山へ?
吉野・大峯地域は、奈良時代から平安時代にかけて、天皇や貴族がたびたび参詣した場所です。当時の人々にとって、吉野は都から離れた神秘的な場所と認識されていたようです。例えば、954年成立の『義楚六帖』という中国の本があります。この本では、「男が金峯山に登るには、三か月、酒、肉、欲、色を断つ必要がある。登ると、願いはすべて達成する」と書かれています。
藤原道長は、寛弘4(1007)年に金峯山参詣をしています。
道長が参詣した理由は、2つあると思います。一つは、当時、「仏教の教えが廃れ、国や社会が衰退する」という末法思想が流行しはじめていたことが挙げられます。このため、仏教的な功徳を積み、極楽往生を願ったと考えられます。
もう一つは、「どんな願いも達成できる」霊山の力を借りたかったのでしょう。この時、道長の娘・彰子が、一条天皇の正室になっていましたが、まだ懐妊していませんでした。つまり、道長の地位も不安定だったのです。ところが、道長が金峯山参詣した翌年に彰子は男子を生み、道長の出世を決定づけました。『栄華物語』には、金峯山のご利益だと喜んだ様子が記されています。この男児は7歳で後一条天皇として即位し、道長は摂政として天皇を補佐していくのです。
2024年は、吉野・大峯地域を含む世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」が登録20周年を迎えます。道長ゆかりの吉野へ、ぜひいらしてください。
吉野歴史資料館「光ありとみし─平安文学と藤原道長にみる吉野」
- 吉野郡吉野町宮滝348
- 0746-32-3081(吉野町産業観光課)
日 程 令和6年3月2日~12月1日(予定)
開館日 会期中の土・日・祝
休館日 上記開館日以外は休館。
※ 冬期休館期間(2月末日まで)実施の空調工事が完了しなかった場合、開館が遅れる場合があります。詳しくは下記よりご確認ください
吉野歴史資料館吉野歴史資料館 学芸職員
中東洋行 氏
吉野町の文化財担当。吉野町の歴史は山の如く、学べばますます高くて、日々是学日と痛感しております。