672年、壬申の乱が起こり、勝利した大海人皇子は天武天皇として即位しました。天武天皇と、皇后の持統天皇の時代の取り組みは、現代にも多数引き継がれていると2022年の秋冬版本誌特集「きっかけは壬申の乱」でお伝えしました。二人の天皇は政治だけでなく「祈り」の場にも関わっています。
寺院については、壬申の乱以前に日本に仏教が伝来し、日本初の寺院、飛鳥寺(法興寺)が飛鳥に誕生しました。それから約100年後の天武から孫の文武天皇の時代まで、飛鳥京や藤原京にはいくつかの寺院が建立されました。
それらの寺院の一部は、平城遷都とともに移転し、現在も信仰を守り続けています。一方で、当時の場所は、別の寺として存続したり、史跡となりながら、当時の営みを現在の私たちに教えてくれます。
飛鳥宮の時代から藤原京の時代に続く、祈りの足跡を紹介します。
飛鳥時代の寺院の「現在」
飛鳥時代、「飛鳥・藤原」の地に建立された寺院の多くは、当時の姿をそのまま留めてはいません。
遷都した時に平城京に遷った寺院もあれば、同地で存続した寺院もあり、長い時間の中で当初の形は失われました。寺院によっては宗派が変わり再興されて現在までつながってきました。また、地上には何もないように見えても、地中に遺構が残る場所もあります。それらの場所は発掘調査により、発見された遺物を見ることができたり、当時の寺院の規模を知ることができます。
山田寺跡や、このページに掲載されている遺跡はユネスコ世界遺産暫定一覧表に記載された「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」の構成資産候補です。
本薬師寺跡と薬師寺
薬師寺は天武天皇が皇后・鸕野讃良皇女(のちの持統天皇) の病気平癒祈願のために建立した寺院で、文武天皇2(698) 年に完成しました。藤原京から平城京への遷都にともない、現在奈良市にある薬師寺の場所に遷りました。このため、元の場所は本薬師寺跡と呼ばれます。
檜隈寺跡と於美阿志神社
檜隈寺跡は、古代から「檜隈」と呼ばれていた地域にある寺院跡で、七世紀ごろの創建と見られます。渡来系氏族である倭漢氏の氏寺と考えられます。現在は、倭漢氏の祖である阿知使主を祀る於美阿志神社の境内地となっています。平安時代の十三重石塔が残っています。
川原寺跡と弘福寺
川原寺は飛鳥寺、大官大寺、(本)薬師寺ととも四大寺に数えられた寺院です。創建年は不明ですが、斉明天皇の居住した川原宮を、息子の天智天皇が寺に改めたと考えられています。川原寺は室町末期に一度廃寺になりましたが、現在は弘福寺が川原寺からの法灯を繋いでいます。
大官大寺跡と大安寺
大官大寺の前身は、聖徳太子創建の「熊凝精舎」に遡ると言われています。何度か移転しており、現在史跡指定されている大官大寺跡は、文武天皇の時期に寺があったとみられる場所です。遷都した際に寺も遷り、天平17(745)年に寺号を大安寺と改めました。
天武・持統天皇に
関わる寺院
『日本書紀』のような歴史書には記されていなくても、天武天皇や持統天皇にかかわる由緒や寺伝を持つ寺院も存在します。たとえば、『長谷寺縁起文』によると桜井市の長谷寺は天武天皇が精舎(僧坊。つまり寺のこと)を作らせたとしています。また、東明寺の創建由来は持統天皇の持病平癒のために、舎人親王が建立したと伝わっています。
東明寺
長谷寺
白鳳時代の仏たち
天武・持統天皇の時代を中心とした飛鳥時代後期(645年以降とされる場合が多い)から平城遷都までの時代を、美術史上・文化史上の時代区分では「白鳳時代」といいます(※諸説あります)。白鳳時代に造立したとされる仏像は「白鳳仏」と呼ばれます。前時代の飛鳥仏と比べ、端正な顔立ちで若々しい表現をしているのが特徴で、童子のような風貌の像もみられます。仏像の素材は様々で、金銅仏をはじめ、塑像、乾漆像、塼仏、石仏などがあります。
當麻寺金堂の弥勒仏坐像、四天王立像はこの時代の仏像です。櫻本坊の秘仏・釈迦如来坐像も同様に白鳳仏で、天武天皇の念持仏(※1)と伝わっています。
他にも奈良県内には多くの白鳳仏が残り、拝観することができます。
(※1)個人が私的に身近なところに安置し、日々拝むための仏像。