- 誕生から平泉へ
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幼名は牛若丸、平治元年(1159)、源氏の棟梁(武家の統率者)源義朝と九条院の雑仕女・常盤の間に生まれました。生後すぐに平治の乱で父が討たれ、母とともに仇の平清盛に一時庇護されます。その後、母の再婚相手である一条長成の継子となり、鞍馬寺に預けられ遮那王と呼ばれます。16歳で京都を脱出し、道中元服して源九郎義経と名乗り、奥州平泉の藤原秀衡のもとへ身を寄せました。
- 平家との戦い
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治承4年(1180)年、異母兄の源頼朝が伊豆で挙兵すると、平泉から参戦。頼朝の猶子(親子関係になること)となり、「御曹司」と呼ばれました。寿永3年(1184)、源義仲軍を破って入京し、一の谷では平家軍に勝利。その後京都に留まった義経は、後白河法皇から検非違使(平安京の警察機構)左衛門少尉の役職を与えられ、のち従五位下となり大夫判官と呼ばれます。翌元暦2年(1185)2月に屋島、3月には壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼします。
- 頼朝と対立して
平泉へ -
後白河法皇に気に入られた義経は頼朝と対立。挙兵するも失敗し、畿内近国を逃亡すること1年数か月。最後は平泉の秀衡を頼ります。秀衡は義経を支えるよう遺言しましたが、秀衡の死後、頼朝が圧力をかけます。文治5年(1189)閏4月30日、義経は平泉兵の急襲を受け、妻子とともに自刃して果てました。享年31歳。悲運の英雄といわれ、後世、「判官びいき」という言葉が生まれました。
- 大和国に
助けられた義経 -
大和国は赤子だった義経の命を助けました。平治の乱後、母の常盤は幼子を連れて大和国宇陀郡竜門牧(宇陀市大宇陀牧)に逃げました。宇陀市の牧や菟田野下芳野には常盤や義経の足跡が残っています。
また、頼朝と対立して都落ちしたあとの義経は、吉野山へ逃げ込みました。ここで同道していた静御前と別れた義経は大峰へ入ったとみせかけて、実際は北の多武峰(桜井市)へ向かい、多武峰の寺院の一つ、南院藤室の僧・十字坊に匿われます。現在の多武峰観光ホテルが南院藤室跡といわれています。その後、十津川、伊勢、京都で潜行したのち、奈良へ戻り、興福寺の勸修坊聖弘のもとに隠れます。その時のお礼に残した籠手が春日大社に残っています。 - 後世、芸能の
題材に -
義経を題材にした能や謡曲は多く、吉野山に関するものでも「吉野静」「二人静」や、花矢倉で有名な義経忠臣の佐藤忠信が一人踏みとどまり奮戦する「忠信」などの作品があります。さらに「義経千本桜」は浄瑠璃・歌舞伎の傑作のひとつです。それらは史実から生まれ、醸成されたのです。
文・前川佳代
奈良女子大学大和・紀伊半島学研究所古代学・聖地学研究センター協力研究員 著書に『源義経と壇ノ浦』等