吉野川上流の景勝地。周辺に斉明天皇の時代に造営した吉野宮がありました。大海人皇子が壬申の乱の際に挙兵した地です。
今から1350年前の672年、古代最大の内乱が起こりました。天智天皇(てんぢてんのう)が崩御した後、天智天皇の弟の大海人皇子(おおあまのみこ)と、子の大友皇子とが、皇位継承をめぐって戦いました。干支暦の「壬申(じんしん)」の年に起きたため、「壬申の乱」と呼ばれています。
『日本書紀』の巻二十八(壬申紀)によると、天智天皇は崩ほう御ぎょの間際、皇位を大海人皇子に譲りたいと伝えました。しかし、事前に忠告をうけていた大海人皇子は皇位継承を固辞して出家し、近江の都から吉野に逃れます。天智天皇の崩御から約半年後、身の危険を察知した大海人皇子は吉野で挙兵します。その後、約一か月の戦いを経て、大海人皇子は勝利しました。
大海人皇子は天武天皇として即位し、様々な制度の改革を実行しました。在位中の前半は権威の確立のために儀式や祭祀の制度を形づくり、中には、現在に至るまで続いている祭事などもあります。後半は都づくりや、歴史書の編へん纂さん、国境の整備、八色(やくさ)の姓(かばね)の制定など、後世に引き継がれていく事業がはじまります。
天武天皇と、跡を継いだ皇后の鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)(持統天皇)が執政した地である奈良で、「壬申の乱」の勝利をきっかけにはじまったことや、それらにまつわる場所を紹介します。
「天皇」木簡 飛鳥池遺跡出土
天皇という称号は天武天皇の時代から使われた説がある
儀式
即位の儀式 大嘗祭
収穫を感謝し、新たな年の豊穣を宮中で祈る「新嘗祭(にいなめさい)」は、天皇が即位する年には大規模な「大嘗祭」として執り行われます。天武天皇はそれまで行われてきた「新嘗祭」を、即位にあたって天皇と民の関係を明確にする儀式「大嘗祭」としました。天武天皇の時代には毎年大嘗祭を実施しています。大宝律令の制定後、即位時に行う一世一代の儀式になりました。
大嘗祭では新穀を奉たてまつる産地を「斎田点定儀(さいでんてんていのぎ)」という占いで選びます。占いに使う波々迦木(ははかぎ)(上溝桜(うわみずざくら)、朱桜(にわざくら)は、往馬大社(いこまたいしゃ)と、天香久山(あまのかぐやま)神社(橿原市)から献上されています。
大嘗祭の「大嘗宮儀(だいじょうぐうのぎ)」では「国栖(くず)の古風(いにしえぶり)」が奏上されます。応神天皇が吉野に行幸した時、国栖の人々が醴(ひとよ)酒(※)を献上し歌ったことが由来の舞です。壬申の乱以後、宮中に国栖の人々が召され、その舞を「翁(おきな)の舞(まい)」として宮中の儀式などで行われるようになりました。一時断絶したこの舞は地元で伝えられ、毎年旧正月十四日に浄見原(きよみはら)神社で「国栖奏(くずそう)」(奈良県指定無形民俗文化財)として奉納されます。
大嘗祭の一環の「大饗儀(だいきょうのぎ)」では、五節舞(ごせちのまい)、久米舞(くめまい)などの歌舞(かぶ)が奏されます。五節舞は、天武天皇が吉野で琴を弾いた時に、天女が飛来して袖を五度翻ひるがえして舞ったことが由来です。吉野山の勝手神社の後方にある袖振山(そでふりやま)がその舞台と伝えられています。また、『古事記』『日本書紀』にも記された来目歌(くめうた)(久米歌)が起源とされる久米舞は、現在では宮中の他に橿原神宮でも年に二度、4月29日の「昭和祭」と11月23日の新嘗祭で奉奏されています。
(※)醴酒…一夜でつくる酒
祭祀1
斎宮制度
「斎宮」は、天皇の即位時に皇族の女性から選ばれる、天皇の御代を伊勢で祈る皇女のこと。崇神天皇(すじんてんのう)の時代の倭姫命(やまとひめのみこと)から南北朝時代まで続きますが、制度化して最初の斎宮は天武天皇の皇女の大来皇女(おおくのひめみこ)です。
大来皇女が伊勢に向かう前に初瀬で潔斎(けっさい)(身を清めること)した記述が『日本書紀』にあり、大来皇女を祀る小夫天神社(おおぶてんじんじゃ)にも伝承が残ります。また、脇本遺跡からは七世紀の建物跡が出土しており、大来皇女の初瀬斎宮跡の一部と考えられます。
- 桜井市小夫3147
※現在は埋め戻されています
- 桜井市脇本
祭祀2
風神・水神を祀る
『日本書紀』天武天皇4(675)年に風神を龍田立野(たつたのたつの)に祀り、水神である大忌神(おおいみのかみ)を広瀬河曲(ひろせのかわら)に祀ったとあります。ともに崇神天皇の時代に創建された神社で、大和川から風が通る場所にある龍田大社と、奈良盆地の川が合流する場所にある廣瀬大社を指します。天武・持統天皇の時代から、これらの要所で、国家安泰(こっかあんたい)、五穀豊穣(ごこくほうじょう)が祈願されてきました。
現在も龍田大社では風鎮大祭(ふうちんたいさい)、廣瀬大社では大忌祭(おおいみのまつり)(砂かけ祭)として祭事が行われています。
造営
天武天皇と持統天皇の都づくり
大海人皇子は壬申の乱の勝利後、飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で即位します。同じ場所には、舒明天皇、皇極・斉明天皇も宮を置いていました。飛鳥浄御原宮は、天武天皇が斉明天皇の宮殿(内郭)をそのまま利用しつつ、エビノコ大殿(※)という建物を増設し、官衙群(かんがぐん)(役所)も整備した宮です。複数の時代の宮が同じ場所にあるため、史跡名称は「飛鳥宮跡」になっています。
その後、新たな都の造営がはじまりました。皇居と官公庁の役割を持つ宮だけでなく、街の区画も同時に計画された「都」です。天武13(684)年に遷都先の場所が定められました。天武天皇の崩御により、都の造営事業は中断されますが、持統天皇により再開されます。それが持統8(694)年に完成した藤原京(ふじわらきょう)(新益京(あらましのみやこ))です。藤原京は、中国の都をモデルとし、約5km四方の空間に碁盤目状(ごばんめじょう)に道路が整備され、宮殿や役所、寺院などが整然と配置された、これまでにない大規模な都市でした。
日本の国づくりをともに目指した天武天皇と持統天皇は藤原宮の大極殿から真南の場所に造られた陵墓(檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ))に合葬されています。
(※)エビノコ大殿… 飛鳥宮跡で最大の建物「大極殿」と考えられている
歴史書
『古事記』『日本書紀』
歴史書の編纂(へんさん)も始まりました。『古事記』は舎人(とねり)の稗田阿礼(ひえだのあれ)が記憶していた『帝紀』や『旧辞』を、太安万侶(おおのやすまろ)に書記させたものです。稗田阿礼は大和郡山の賣太(めた)神社に、太安万侶は田原本の多(おお)神社に祀られています。
『日本書紀』は神話から持統天皇までを編年体(※)で記述した、現存最古級の正史です。壬申の乱は、巻二十八の天武紀(壬申紀)で詳細に記されています。『古事記』『日本書紀』ともに奈良時代に完成しました。
(※)編年体…出来事を年代順に記す方法
- 大和郡山市稗田町319
- 0743-52-4669
風習
吉野国栖 の伝承と紙漉 き
国栖地域には、「国栖奏」以外にも様々な大海人皇子の伝承が残っています。追っ手に追われた大海人皇子をかくまった場所や、こもった場所、大海人皇子を助けるため、追ってきた犬を村人が殺したという犬塚もあります。その集落では、それ以降、犬を飼わなかったと伝わります。
現在も地域で続く紙漉(かみす)きは、大海人皇子が国栖の人々に勧めたと伝わり、伝統的な紙漉き手法を継承しています。「国栖の紙は千年持つ」と言われ、国内外の文化財の修復などにも使われています。
- 吉野郡吉野町窪垣内
ほかにもあります!今につながるこんなきっかけ
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写経
天武天皇2(673)年、川原寺に写経生を集め、一切経の写経を行いました。今日に続く写経のはじまりと考られています。
- 川原寺跡弘福寺(かわはらでらあとぐふくじ)
- 高市郡明日香村川原1109
- 0744-54-2043
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かぎろひ(冬の朝日で染まった空のこと)
壬申の乱ゆかりの阿騎野(あきの)に、持統6(692)年、皇太子・軽皇子が猟に訪れます。同行した柿本人麻呂は冬の夜明け直前の光である(※諸説あり)「かぎろい」を、歌に詠みました。※ 歌が詠まれた旧暦11月17日には「かぎろひを観る会」が行われています。2022年は12月10日開催予定。
- かぎろひの丘万葉公園(おかまんようこうえん)
- 宇陀市大宇陀迫間 25
臣下たちの戦いの地
大海人皇子は壬申の乱では、不破(岐阜県関ケ原町)に行宮(あんぐう)(※)を置き、戦いの指揮をしました。大和(奈良)で戦ったのは大伴氏などの将軍です。最前線に身を投じた臣下たちにまつわる場所を紹介します。
(※)行宮…一時的な仮の宮
1
将軍・大おおとものふけい伴吹負は飛鳥京から北上し、下ツ(しもつ)道を通って乃楽山(ならやま)に向かいます。下ツ道は上ツ(かみつ)道、中ツ(なかつ)道とともに藤原京や平城京を造営する際の基準にもなった奈良盆地を南北に走る古代の官道の一つです。大和郡山市に下ツ道歴史広場が整備されています。
- 大和郡山市八条町
2
乃楽山に攻めてきた近江軍と大伴吹負軍が戦い、吹負軍は負けます。吹負はほんの一、二騎を率いて、墨坂まで来ていた置始連菟(おきそめのむらじうさぎ)の軍と合流しました。墨坂は現在の墨坂神社周辺と考えられています。
- 宇陀市榛原萩原703
- 0745-82-0114
3
村屋神の祭神が神官に神がかりし、「我が社の中ツ道から軍勢が来るので、道を防げ」と告げました。数日後に近江方の廬井造鯨(いおいのみやつこくじら)の軍が中ツ道から来襲します。神の教えはこれだったのだと人々は言ったと『日本書紀』に記されています。
- 磯城郡田原本町大字蔵堂426
- 0744-32-3308
5
文祢麻呂は壬申の乱勃発時、吉野宮から大海人皇子に付き従った20数名の舎人のうちの一人です。最終局面の瀬田(滋賀県大津市)での戦いにも参加、慶雲4(707)年に死去した際、壬申の乱の功績により位を賜っています。江戸時代の天保2(1831)年に宇陀で墳墓が発見されました。銅の墓誌板には壬申の乱の将軍の文祢麻呂の墓であることが記載されています。現在は埋め戻され、墓は国の史跡に、出土品は国宝になっています。
- 宇陀市榛原八滝