聖徳太子命名と伝わる信貴山
大阪府との県境にそびえる信貴山。雄岳と雌岳と呼ばれる二つの峰を持ち、春は桜、初夏はあじさい、秋は紅葉が美しい風光明媚な景勝地であり、その山腹に建つのが朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)です。
この山を信貴山と命名したのは聖徳太子(厩戸皇子(うまやとのみこ))であると伝わります。「物部守屋の討伐に際して太子が戦勝を祈願すると毘沙門天王が現れ、必勝の秘法を授かった。そのご加護で勝利した太子は、山に毘沙門天王を祀り『信ずべき、貴ぶべき山』と名付けた」と伝承され、毘沙門天王を祀る信貴山朝護孫子寺が聖徳太子創建と伝わる由縁となっています。
「寅の年・寅の日・寅の刻に太子の前に毘沙門天王が出現した」との伝承にちなみ、信貴山では寅を大切にしています。境内入り口にある大きな張り子の寅をはじめ、灯籠の飾りやのぼり、授与品やお土産など、寅モチーフのものが見られます。
毘沙門天王は武運の神として崇められ、後世の武人たちも信貴山を篤く信仰しました。例えば南北朝時代の武将・楠木正成(くすのきまさしげ)は、母親が朝護孫子寺に百日詣をして生まれたという伝承が残され、幼少時の名前は毘沙門天王の異名である多聞天から「多聞丸」と名付けられました。寺宝には正成の武具なども伝わっています。
また、毘沙門天王は財宝福徳を与えるという功徳から福の神と結びついて、七福神の一人に数えられています。近年では家内安全や心願成就といった現世利益を願う人々が熱心に朝護孫子寺を参拝しています。信貴山は、飛鳥時代から今に至るまで、さまざまな形で人々に信仰され続けてきた山なのです。
信貴山縁起絵巻と命蓮上人
命蓮上人が信貴山で醍醐天皇の病気を祈願し、平癒したことで、醍醐天皇(在位897~930)から朝廟安穏(ちょうびょうあんのん)・守護国土・子孫長久(しそんちょうきゅう)の祈願所として、「朝護孫子寺」の寺号を賜り、勅願寺となりました。
このような信貴山朝護孫子寺中興(ちゅうこう)の祖とされる僧侶・命蓮上人の伝説を描いたのが、平安時代の国宝『信貴山縁起絵巻』。「飛倉(とびくら)の巻」「延喜加持(えんぎかじ)の巻」「尼公(あまぎみ)の巻」の全三巻で構成された絵巻です。人々の喜怒哀楽や、動物を生き生きと描いています。また一つの図の中で同一人物の複数の出来事を描き、時間の流れを表す「異時同図法」は、区切りのない絵巻物ならではの表現です。それらは現代のアニメーションにも通じます。
寅年の2022年は国宝『信貴山縁起絵巻』順次公開!
奈良国立博物館に寄託されている実物は毎年1巻ずつ里帰りをして公開をしていますが、2022年は朝護孫子寺霊宝館にて3巻が順次公開されます。
4月2日~17日公開「飛倉の巻」/空を飛ぶ鉢が長者の米倉を乗せて飛び、長者の家人が追いかける様子がコミカルに描かれます。この説話に由来するのが現在の空鉢護法堂です。
8月6日~21日公開「延喜加持の巻」/醍醐天皇の病を命蓮上人が加持祈祷で癒した説話です。境内にある剱鎧護法堂は、病床の醍醐天皇の枕元にれた剱鎧護法(剱鎧童子)を祀る社です。
10月8日~10月23日公開「尼公の巻」/命蓮上人とその姉が、東大寺の大仏に導かれて再会する話です。「異時同図法」を用いています。絵画に描かれた大仏で現存する最古のものです。
戦国時代の信貴山と武将たち
信貴山は、大和盆地と大阪平野の両方を見下ろせる位置にあります。交通や、戦における戦略上の要衝であり、戦国時代には畠山氏の家臣・木沢長政が、信貴山の山上に築城しました。
長政が戦いで敗れたあとは、松永久秀が入城し、軍事拠点として大改修を行いました。久秀は城郭建築の第一人者で、奈良県下最大規模を有する信貴山城跡からは、久秀が考案したとされる防衛と武器や食料などの備蓄を兼ねた「多聞櫓(たもんやぐら)」などの設備があったことが分かっています。一時は織田信長の家臣となった久秀でしたが、最終的には離反。信貴山城に籠城するも織田軍に包囲され、信長が望んだ名物茶器「平蜘蛛の茶釜」をたたき割り、(※諸説あり)城に火をかけて自害、城は廃城となります。
信貴山城跡には建築物は現存しませんが、堀や土塁、建物を立てるために作った平地がほぼ残っており、平群町の史跡として登録されています。現地には「信貴山城跡」と彫られた石碑と案内板が設置され往時を偲ばせるとともに、本丸があった場所には空鉢護法堂が建立されています。つづら折りの参詣道を上がった頂上にあるこのお堂からの眺望は奈良県でも指折りの雄大さです。
なお、城とともに焼失してしまった朝護孫子寺の伽藍は、のちに豊臣秀頼によって再建されています。
災厄から守護する護法・剱鎧童子を祀った堂。病気平癒・無病息災を願う参詣者が絶えない。
命蓮塚
命蓮上人の墓所と伝わる。板碑(いたび)十三仏は室町時代のもので、長く続く信仰の歴史が感じられる。
福徳の守り本尊として毘沙門天王の眷属・難陀竜王を祀った堂。堂からの眺めは絶景。
信貴山城跡
城は信貴山の雄岳(おだけ)を中心に建っていた。城跡の石碑は空鉢護法堂から少し下ったところにある。
松永屋敷跡
久秀の居住区と考えられる。建物は残っていないが、尾根を平地に造成した「曲輪(くるわ)」などが残る。
信貴山いろいろ
虎の巻
朝・昼・夜それぞれの表情を訪ねて
毘沙門天王が出現した寅の刻(午前3時から5時ごろ)に参拝を希望する参詣者が多い信貴山朝護孫子寺の山門は24時間開かれています。どの時間帯にお参りしても、それぞれに魅力的です。
朝5時をすぎたころ、信貴山境内のそれぞれの塔頭(たっちゅう)で朝の勤行(ごんぎょう)が始まります。本堂は創建当時から山の斜面に柱を伸ばした舞台造りで、本堂前が開けており、大和盆地を見晴らすことができます。朝のすがすがしさを感じられることはもちろん、季節や気候によっては雲海に遭遇することもあります。
境内各所にある寅の黄色が、日差しの中でより鮮やかに見える日中。広い境内には本堂以外にも、各塔頭のお堂や霊宝館、かやの木稲荷、虚空蔵堂など、巡るところがたくさんあります。朝護孫子寺のシンボルの寅や、本尊・毘沙門天王の眷属(けんぞく)であるムカデのモチーフを探したり、境内から外に足を延ばしての周辺散策もおすすめです。大門ダム湖にかかる「開運橋」は、現存する日本最古(昭和6年)のカンチレバー式(片持ち梁)の橋で、国の登録有形文化財、奈良県景観資産に認定されています。近年、この橋からバンジージャンプが行えるようになりました。
本堂舞台からは夕焼けを堪能できるほか、夜景も絶景です。夜になると、境内中の灯篭に明かりが灯り、参詣道を照らしてくれます。本堂は22時までライトアップされています。
令和4年は12年に一度の御開帳の年
朝護孫子寺の本堂には、本尊・毘沙門天王像が祀られています。通常時に安置されているのは「御前立(おまえだち)」と呼ばれる像で、通年は年に3回「中秘仏」が、12年に一度の寅年には「奥秘仏」が御開帳されます。
奥秘仏の毘沙門天王像は聖徳太子ゆかりとお寺に伝わる、門外不出の木造の像です。邪鬼を踏みしめ、右手に宝棒(ほうぼう)、左手に宝塔(ほうとう)を持っています。本堂内陣の開かれた厨子(ずし)の扉の前に妻の吉祥天女像と子の善膩師童子像(ぜんにしどうじぞう)が立ち、厨子の奥に奥秘仏毘沙門天王像が安置されています。戦いの神である毘沙門天王ですが、朝護孫子寺では密教の「殺すなかれ」の教えを表し、持ち物も武器ではなく、家族神の形態で祀られているのが特徴です。
本堂の地下には約900年前に平安時代の僧侶、覚鑁上人(かくばんしょうにん)が修行し、毘沙門天王から授った「如意宝珠」を納めたと伝わります。暗闇の回廊の中を進み、宝珠を納める錠前に触れることができる「戒壇めぐり」もお勧めです。
奥秘仏毘沙門天王像御開帳
- 2月1日(火)~28日(月)
- 4月1日(金)~17日(日)
- 7月1日(金)~10日(日)
- 8月6日(土)~21日(日)
- 10月1日(土)~11日(火)
お寺に泊まる特別な時間
全国各地から多くの参拝者が訪れる朝護孫子寺は、一つの本堂を複数の子院(塔頭)で守る寺院です。信貴山には3つの塔頭があります。いずれも宿坊を兼ねており、参拝・宿泊が可能です。通常の宿と同じように個室で宿泊、さらに修行体験をしたり、希望すれば精進料理が食べられたりと、宿坊ならではの時間を過ごすことができます。
千手院は信貴山最古の塔頭です。宿坊の本館は江戸時代に建てられたもので、江戸時代前期の作庭家でもあった小堀遠州が手掛けた名庭園が見どころです。また、大きな口を開けた寅の中に入り、トンネル状を進む「胎内くぐり」ができます。
成福院(じょうふくいん)は赤門から本坊側参道のちょうど中間にあり、朱色の堂「融通殿」が目印です。この融通殿には後嵯峨天皇の念持仏とされる如意宝珠が祀られています。申し込みをすると大般若祈祷や融通希願を受けられます。客殿は赤坂離宮の改修も手掛けた、文化勲章受章者である村野藤吾氏が設計しています。
玉蔵院(ぎょくぞういん)は平安時代末期の創建とされる塔頭で、遠くからも見える14.54mと大きな地蔵菩薩像が祀られています。玉蔵院では宿泊以外にも写経、写仏、阿息観(瞑想)、僧侶・尼僧体験などの修行体験をすることができます。(要事前申し込み)