額田王(ぬかたのおおきみ)(生没年不詳)
天智(てんじ)天皇(668年~ 672年)の時代を中心に活躍した歌人で、『万葉集』には長歌3 首、短歌10 首が残っています。彼女が大海人皇子(おおあまのみこ)(天武(てんむ)天皇)に向けた「あかねさす 紫野(むらさきの)行き 標野(しめの)行き 野守(のもり)は見ずや君が袖振る(巻1-20 )」(あかね色をおびる、あの紫の野の御料地(ごりょうち)を行きながら…野の番人は見てはいないでしょうか、あなたが袖をお振りになっている)の歌は、とくに人気が高い万葉歌のひとつです。
中大兄皇子(なかのおおえのみこ)(天智天皇)が大和三山を詠んだ「香具山(かぐやま)は 畝火(うねび)ををしと 耳梨(みみなし)と相(あひ)あらそひき…(巻1-13)」の歌などから「天智天皇と天武天皇が取り合った絶世の美女」というイメージが強いですが、実は『万葉集』以外に彼女についての記述は少なく、確実なのは大海人皇子との間に十市皇女(とおちのひめみこ)をもうけたことくらい。ただそのミステリアスさが、彼女の魅力を一層高めています。
三輪山を
しかも隠すか
雲だにも
情(こころ)あらなむ
隠さふべしや
(巻一・一八)
近江国(現滋賀県)への旅路の中で額田王が詠んだ歌。「味(うま)酒(さけ) 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際(ま)に い隠(かく)るまで道の隈(くま) い積(つも)るまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも見(み)放(さ)けむ山を 情(こころ)なく 雲の 隠さふべしや(巻1-17)」の長歌に添えた反歌(※)です。「三輪山を隠さないでほしい。せめて雲だけでも思いやりの心があってほしい」と、飛鳥を離れる気持ちを格調高く歌いあげています。大津京遷都のときの歌ともいわれています。
三輪山(みわやま)
三輪山は古くから神聖視されてきた山。額田王らにとっては、飛鳥京を象徴する存在だったのでしょう。現在西麓には、三輪山そのものをご神体とする大神神社が鎮座します。
※反歌:長歌のあとに添える短歌
大神神社
君待つと
わが恋ひをれば
わが屋戸(やと)の
すだれ動かし
秋の風吹く
(巻四・四八八)
この歌には「額田王の近江天皇を思ひて作れる歌」という題詞があります。近江天皇は天智天皇のこと。「君を待つとて恋しく思っていると、わが家のすだれを動かして、秋風が吹きます」。なんとも切ない歌で、「額田王は大海人皇子と別れ天智天皇に嫁いだ」という説の根拠の一つとされますが、『日本書紀』にそのような記述は無く、この歌も実際の出来事を歌っているかはわかりません。
粟原寺跡(おおばらでらあと)
粟原寺は桜井市粟原の高台にあった寺院。額田王終焉の地には諸説がありますが、そのひとつに「晩年は臣籍降下しこの寺で余生を過ごした」というものがあります。現在は礎石が残るのみですが、寺跡に立ち上の歌を思うと、一層切なさがこみあげてくるようです。下に紹介する「古に 恋ふらむ鳥は…」の歌碑もあります。
古(いにしへ)に
恋ふらむ鳥は
霍公鳥(ほととぎす)
けだしや鳴きし
わが念(おも)へる如(ごと)
(巻二・一一二)
天武天皇の死後、持統天皇の吉野行幸に同行した弓削皇子(ゆげのみこ)から額田王のもとに「あの鳴きながら渡っていく鳥は、昔を恋(こう)鳥でしょうか」という歌が届きます。それに答えた額田王の歌がこちら。「あなたが“昔を恋う”という鳥はホトトギスでしょう。恐らくは鳴いたでしょう。私が昔を恋しく思うように」。額田王は当時60歳前後。若い弓削皇子に、恋歌をレクチャーしているようにも見えます。
宮滝遺跡(みやたきいせき)
吉野は大津宮を逃れた大海人皇子(天武天皇)が鸕野讚良皇女(うののさららのひめみこ)(持統天皇)とともに隠棲した場所。持統天皇が何度も行幸した吉野宮は、吉野川右岸の宮滝遺跡と推定されています。 宮滝遺跡
大伴家持(おおとものやかもち)(718年?~785年)
大伴旅人(おおとものたびと)(655年~731年)
大伴旅人は元号「令和」の出典となった『万葉集』巻五の「梅花の歌三十二首」の序文「…時に、初春(しょしゅん)の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和(やはら)ぎ…」(…時あたかも新春の好き月、空気は美しく風はやわらかに…)の作者。『万葉集』に76 首を残しています。家持は旅人の子で、『万葉集』で最多となる479 首もの歌を残し、編纂に関わったともいわれています。歌人としてのイメージが強い二人ですが、大伴氏といえば、初代神武天皇の時代からの武門の家柄とされていました。旅人は養老4年(720)に征隼人持節大将軍に任ぜられ、九州南部で起こった隼人(はやと)の反乱の鎮圧にあたり、また家持も延暦3 年(784)に持節征東将軍に任ぜられるなど、二人の活躍の記述は史書にも見られます。
わすれ草(くさ)
わが紐(ひも)に付く
香具(かぐ)山の
故(ふ)りにし里を
忘れむがため
(巻三・三三四)
大宰府に大宰師(だざいのそち)(長官)として赴任した旅人が、おそらく宴会の席で、故郷を懐かしみ詠んだ歌。「わすれ草を私は紐に付ける。香具山がある、あの懐かしい故郷を忘れようとして」。旅人が大宰師に就任したのは神亀4年(727)で、平城遷都からは17年が経っていましたが、高齢の旅人としては、平城京よりも藤原京に望郷の念を抱いたようです。この宴会には大宰少弐(だざいのしょうに)の小野老(おののおゆ)も同席していたとみられ、有名な「あをによし 寧楽(なら)の京師(みやこ)は 咲く花の 薫(にほ)ふがごとく 今盛りなり(巻3-328)」の歌を残しています。
香具山(かぐやま)
畝傍山(うねびやま)、耳成山(みみなしやま)と合わせて「大和三山」と呼ばれる山です。標高は約152m。上の歌以外にも、持統天皇の「春過ぎて 夏来(なつきた)るらし 白栲(しろたへ)の 衣乾(ころもほ)したり 天の香具山(巻1-28)」など多くの歌に詠まれています。
龍田山(たつたやま)
見つつ越え来(こ)し
桜花(さくらばな)
散りか過ぎなむ わが帰るとに
(巻二十・四三九五)
これは家持が天平勝宝7年(755)に難波で、防人(さきもり)(※)を迎え、送り出す任にあたっていた時の歌。「龍田山で見ながら越えてきた桜の花は、散ってしまうだろうか。私が帰らないうちに」。『万葉集』には防人の歌も多く掲載されていますが、そのほとんどはこの時に家持が収集したものです。望郷の思いも感じる歌ですが、意外に家持は、防人たちとの交流を楽しんでいたのかもしれません。
龍田大社(たつたたいしゃ)
龍田山の場所ははっきりしませんが、大阪との府県境である三郷町西方の山並みを指すとされます。麓には、風の神様として有名な龍田大社が鎮まります。
- 生駒郡三郷町立野南1-29−1
- 0745-73-1138
新(あらた)しき
年の始(はじめ)の
初春(はつはる)の
今日降る雪の
いや重(し)け吉事(よごと)
(巻二十・四五一六)
天平宝宇3年(759)、因幡国(いなばのくに)(現鳥取県)に国守として赴任した家持が、正月の宴で詠んだ歌。「新しい年のはじめの、新春の今日を降りしきる雪のように、いっそう重なれ、吉き事よ」。元日の雪は豊年の瑞祥(ずいしょう)で、新年を寿(ことほ)ぐ歌です。この歌は、『万葉集』に収録された最後の歌でもあります。あるいは現存しないだけで続きがあったのかもしれませんが、世界平和を祈るようなこの歌で締めくくるというのも、『万葉集』にふさわしい気もします。
平城宮跡(へいじょうきゅうせき)
大伴旅人や家持の時代、日本の政治・文化の中心だった平城京。その宮の一部が復原されています。大極殿や朱雀門などのほか、ガイダンス施設も整備されています。
- 奈良市佐紀町
- 0742-30-6753(奈良文化財研究所)
柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)(生没年不詳)
持統天皇(690 年〜 697 年)、文武(もんむ)天皇(697 年〜 707 年)の時代を中心に活躍した歌人。ただ『日本書紀』に記述は無く、出自や官位なども不明。『小倉百人一首』には人麻呂の歌として「あしひきの 山鳥の尾の しだり尾の 長長し夜を 独りかも寝む」(あしひきの山鳥の尾のしだれた尾のように長々とした夜を、一人で寝るのかなぁ)がありますが、この歌は『万葉集』では巻11-2802に「或る本の歌に曰はく」という注と共に掲載されていて、実は人麻呂作との確証はありません。ただ『万葉集』を代表する優れた歌人であることは間違いなく、長歌・短歌併せて88首を残し、「柿本人麻呂歌集」と記された歌なども含めると、450 首以上が掲載されています。
東(ひむがし)の
野に炎(かぎろひ)の
立つ見えて
かへり見すれば
月傾(かたぶ)きぬ
(巻一・四八)
人麻呂の代表歌のひとつです。「東方の野の果てに曙光(しょこう)がさしそめる。振り返ると、西の空に低く月が傾いている」。前後に掲載された歌から、軽皇子(かるのみこ)(文武天皇)と阿騎野(あきの)(現宇陀市大宇陀)に狩りに来た時に詠んだとされます。軽皇子を昇る朝日になぞらえてたたえつつ、沈む月に、亡き草壁皇子(くさかべのみこ)をしのんでいると考えられています。
かぎろひの丘万葉公園
宇陀川沿いの小高い丘に万葉植物が植栽され、東屋と自然石の歌碑があります。人麻呂がかぎろひを見たとされる旧暦11月17日には、この場所で「かぎろひを観る会」が開かれます。
かぎろひの丘万葉公園
未通女等(をとめら)が
袖振山(そでふるやま)の
瑞垣(みづかき)の
久しき時ゆ 思ひきわれは
(巻四・五〇一)
「おとめが袖を振る、布留(ふる)山の社の瑞垣が年久しいように、長い年月、ずっと恋いつづけてきたことだ、私は」。布留山は、天理市石上神宮南東の神山といわれています。瑞垣は神域に巡らせた垣のこと。前半は修飾で、歌の本題は最後の二句。しかし“袖を振る”と“布留山”をかけ、言葉を連想ゲームのようにつなげることで、恋心を歌に昇華しています。
石上神宮(いそのかみじんぐう)
石上神宮は初代神武天皇を助けたという神剣・布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)を祀る、日本最古の神社のひとつ。布留山麓の高台にあり、杉の巨樹が茂る境内には神さびた雰囲気が漂います。
- 天理市布留町384
- 0743-62-0900
Profile
井上 さやか さん
宮崎県生まれ。中京大学非常勤講師、奈良県万葉文化振興財団研究員などを経て、奈良県立万葉文化館指導研究員に。著書に『山部赤人と叙景』『万葉集からみる「世界」』(新典社)、監修に『マンガで楽しむ古典 万葉集』『マンガはじめて読む 古事記と日本書紀』(ナツメ社)などがある。
『万葉集』を知れば、
奈良はもっと楽しくなる
現存する日本最古の歌集である『万葉集』。約4500 首の歌が収められ、その内900 首ほどが、奈良を舞台に詠まれたといわれ…と、このように説明すると、学生時代の勉強を思い出して、敬遠される方も多いのではないでしょうか。しかし『万葉集』には、今の私たちも共感できるような恋の歌や、「西の市に ただ独り出でて 眼並(めなら)べず 買ひにし絹(きぬ)の 商(あき)じこりかも(巻7-1264)」という、「一人で買い物に行って失敗しちゃった」のような楽しい歌もたくさんあります。もちろん深く読めば、買い物の失敗に恋を寓意していたりするのですが、そこはいったん忘れて、まずは地元の歌や好みの歌人から、『万葉集』の世界に入っていただいても良いのではないでしょうか。
また奈良は古代史の舞台だったこともあり、予備知識があれば、より深く楽しめる場所がたくさんあります。例えば、山部赤人(やまべのあかひと)という歌人が「明日香河 川淀(かはよど)さらず 立つ霧の 思ひ過ぐべき 恋にあらなくに(巻3-325)」(飛鳥川のよどみに立ちこめている川霧のように、簡単に忘れる慕情ではないのに)という歌を残していて、飛鳥寺境内に歌碑が立っています。何も知らずに飛鳥川を見るより、こんな歌を知ってからだと、一層楽しめそうな気がしませんか? 奈良県立万葉文化館では、そのような万葉歌について楽しみながら学んでいただけます。ぜひ一度お越しいただき、奈良の旅を一層実りあるものにしていただければ幸いです。
元号『令和』の典拠となったことで、
ますます注目を集めている『万葉集』。
その魅力に触れるには、歌が詠まれた背景を
知ることが欠かせません。
そこで今回は、奈良県立万葉文化館指導研究員の
井上さやか先生に、歌と歌人について
語っていただきました。
文・構成 赤松 賢一
※歌の表記は『万葉集 全訳注原文付』
(校注・中西進 発行・講談社)
を参考にしました。
イラストはイメージです。