奈良県が
「日本で一番世界遺産が多い県」に
2026年7月26日、「飛鳥・藤原の宮都」が世界文化遺産に登録され、奈良県は都道府県別で最多となる四つの世界遺産を有することとなりました。飛鳥・藤原が栄えた6世紀末から8世紀初頭にかけては、日本の古代国家や都、仏教文化が形づくられていった時代です。その歴史をたどると、奈良県内にあるほかの世界遺産との深い結びつきが見え、飛鳥時代から奈良時代へと、社会や文化が移り変わっていく過程も浮かび上がります。
法隆寺にゆかりのある聖徳太子と「法隆寺地域の仏教建造物」、修験道の祖とされる役行者と「紀伊山地の霊場と参詣道」、そして藤原京から平城京へ都を移した元明天皇と「古都奈良の文化財」。それぞれの地域や遺産は、独立して存在しているのではなく、人の往来や信仰、政治、文化の流れによって結ばれています。
本特集では、「飛鳥・藤原」の構成資産と、奈良県内にある他の三つの世界遺産との「つながり」を紹介します。現地を訪ねる前にその関係を知れば、一つ一つの社寺や史跡を通じて、飛鳥時代から奈良時代へと受け継がれた歴史が見えてくるはずです。
法隆寺地域の仏教建造物
(斑鳩)
法隆寺地域の仏教建造物は、1993年、姫路城とともに日本で最初に世界文化遺産に登録されました。聖徳太子ゆかりの法隆寺と法起寺に所在する48棟の建造物からなり、法隆寺西院伽藍の金堂や五重塔をはじめ、7世紀後半から8世紀初頭にさかのぼる建物は、世界最古級の木造建築群として知られています。『日本書紀』には670年に創建法隆寺が焼失したことが記され、現在の西院伽藍は、その後8世紀始め頃までに再建されたものと考えられています。日本における初期の仏教建築の姿を今に伝える、貴重な文化財群です。
法隆寺を生み出した時代の政治と文化の中心は、飛鳥にありました。飛鳥・藤原の時代、仏教は国づくりの重要な柱とされ、飛鳥の地には次々と寺院が建立されていきます。その仏教興隆を担った人物のひとりが、聖徳太子でした。
聖徳太子(厩戸皇子)
推古天皇の摂政として、飛鳥時代に仏教興隆を進めたのが聖徳太子です。冠位十二階の制定や遣隋使の派遣などに関わり、十七条憲法を定めたと伝えられています。601年に斑鳩宮を造営し、607年ごろには法隆寺の前身にあたる若草伽藍が完成したとされ、飛鳥で育まれた仏教文化を斑鳩へと広げました。
太子道・筋違道
伝承では、聖徳太子は愛馬・黒駒に乗り、従者の調子丸を伴って、住まいの斑鳩宮と推古天皇の宮殿のある飛鳥の小墾田宮を往来したとされます。斑鳩と飛鳥を斜めに結ぶこの古道は、奈良盆地の条里に対して斜めに延びることから「筋違道」、また「太子道」と呼ばれています。
橘寺から
法隆寺へ運ばれた仏たち
11世紀後半の法隆寺金堂の仏像を記録した『金堂日記』には、承暦2年(1078)、橘寺から小仏49躯が法隆寺へ移されたことが記されています。現存する仏像のうち、どれが橘寺旧蔵であったかはすべて特定されていませんが、明治時代に法隆寺から皇室へ献納され、現在は東京国立博物館に伝わる小金銅仏群「四十八体仏」に、その一部が含まれる見方があります。橘寺と法隆寺の間で、実際に仏像が移されたことを伝える貴重な記録です。
紀伊山地の霊場と参詣道
(吉野・大峯)
紀伊山地の霊場と参詣道は、2004年に登録された世界遺産で、吉野・大峯、熊野三山、高野山という三つの霊場と、それらを結ぶ参詣道からなります。自然崇拝を基層に神道と仏教が融合した独自の信仰文化が息づき、三つの霊場だけでなく、人々が実際に歩いてきた参詣道そのものも構成資産となっている点に、大きな特徴があります。奈良県内では、霊場「吉野・大峯」と大峯奥駈道、熊野参詣道小辺路が構成資産となり、金峯山寺や大峰山寺を中心に、今も修験道の修行の場として多くの人が訪れています。
飛鳥・藤原で律令国家の宮都が整えられていく一方、吉野の山々では、自然を神聖視する信仰が育まれていました。性格の異なる二つの地域でしたが、同じ大和の中にあり、人々の往来によって結ばれていました。
役行者
葛󠄀城山を拠点に修行したと伝わる役行者は、後世、修験道の祖と仰がれました。伝承では大峯山で蔵王権現を感得し、大峯の山々を修行の場として開いたとされます。『続日本紀』には、699年、役行者に師事した呪術者で、のちに典薬頭(※1)となった韓国連広足の訴えにより、伊豆島へ配流されたことが記されています。
(※1)朝廷の医療、薬事や呪術を担った役所「典薬寮」の長官
芋ヶ峠
671年、大海人皇子(後の天武天皇)は、鸕野讃良皇女(後の持統天皇)らとともに、飛鳥の嶋宮を経て吉野へ向かいました。その経路として有力視されているのが、飛鳥と吉野を結ぶ代表的な峠道、芋ヶ峠越えです。持統天皇も在位中に31回吉野へ行幸しており、芋ヶ峠はその往来を支えた道の一つと考えられています。
同じ時代、
記録に残ったふたつの出来事
飛鳥・藤原の構成資産と吉野・大峯との間には、物や建物の移動という形で確認できる直接的なつながりは多くありません。しかし、役行者が配流された頃とほぼ同じ時期に、現在の吉野水分神社につながる水分信仰も記録に姿を現します。文武天皇2年(698)、雨乞いのため「芳野水分峰神」に馬を奉ったという記事です。藤原京が政治の中心として機能していた時代に、吉野の山でも、水をつかさどる神への信仰が営まれていたことが分かります。
古都奈良の文化財(奈良)
古都奈良の文化財は、1998年に登録された世界遺産で、東大寺、興福寺、春日大社、春日山原始林、元興寺、薬師寺、唐招提寺、平城宮跡の資産からなります。710年に遷都された平城京を舞台に、遣唐使などを通じてもたらされた大陸文化と、仏教による鎮護国家の思想が花開いた、奈良時代の政治と文化を今に伝える文化財です。
平城京の成立には、飛鳥・藤原で培われた国づくりの経験が生かされていました。
政治制度や都市計画が受け継がれ、寺院では法統が継承され、伽藍もそれまでの形式を受け継ぎながら、奈良時代にさらに発展していきます。その一方で、瓦や仏像など、実際に新しい都や寺院へ運ばれたものもありました。
元明天皇
707年、藤原宮で即位した元明天皇は、翌708年に平城遷都の詔を出し、710年に都を平城京へ移しました。政治の中心が新都に移り、主要な寺院も段階的に平城京へ移転・造営されました。その後、孫にあたる聖武天皇の時代には、東大寺の造営をはじめ、天平文化が花開きました。
上ツ道・中ツ道・下ツ道
奈良盆地には、上ツ道・中ツ道・下ツ道という三本の古代幹線道路が南北に通っていました。このうち下ツ道は、藤原京域では西四坊大路として都の中に取り込まれ、北へ延びて平城京の朱雀大路につながりました。古くからの道路の軸線が、二つの都の都市計画に生かされたのです。
飛鳥から奈良へ、
運ばれたもの・受け継がれたもの
飛鳥・藤原から次の時代へ継承されたのは、思想や制度だけではありません。瓦や仏像など、建築技術や造営計画も、新たな都や寺院へと伝えられました。
元興寺極楽堂と禅室の屋根には、飛鳥寺の創建期にさかのぼる古瓦が、今も使われています。また、山田寺講堂の本尊だった薬師三尊像は、1187年に興福寺へ移されました。その後、1411年の火災で中尊の頭部だけが残り、現在は国宝「仏頭」として興福寺国宝館に伝えられています。
一方、平城宮の正門・朱雀門跡から出土した軒瓦の9割以上は、藤原宮で用いられたものと同じ形式の「藤原宮式軒瓦」でした。すべてが藤原宮から運ばれたとは断定できませんが、二つの宮都の建築文化の継承を示す手がかりになると考えられます。
