祈りの回廊

特別講話

「水と芸能の神」 峯本宮 天河大辨財天社
宮司/柿坂神酒之祐

—芸能関係者の崇敬も厚いとお聞きしています。まずは歴史について教えてください。
—芸能関係者の崇敬も厚いとお聞きしています。まずは歴史について教えてください。
柿坂宮司
 当社の歴史は、飛鳥時代に大峯山を開いた役行者が山中で辨財天を感得され、当社南東に聳(そび)えます弥山(みせん)山頂にお祀りされたことに始まります。その後、天武天皇により、現在地に社宇(しゃう)が創建されました。弥山山頂には、今も奥宮として弥山神社をお祀りしております。
 辨財天は古代インドで川の流れを神格化し誕生した神で、本来は水の神様です。同時に、水のせせらぎのごとく素直で妙なる弁舌や音楽の神でもあり、別名「妙音天(みょうおんてん)」とも申し上げます。
 私は若いころ世界を回り、各国の方と触れ合う機会を得ました。自然の声を聴き先祖を敬うのは、国の垣根を超えた、人としての本体です。そして、信仰を音楽などの芸術で表すこともまた、万国共通のことでしょう。当社には、古くから芸能の守り本尊として信仰されてきた歴史がございます。現在も俳優、歌手など芸能の世界で精進される方々が参拝に来られ、また演奏などを奉納していただいております。
—役行者だけでなく、弘法大師や、南朝との関わりを示す記録も残っています。
—役行者だけでなく、弘法大師や、南朝との関わりを示す記録も残っています。
柿坂宮司
 私は役行者は、日本の文化、宗教などあらゆるものに影響を与えた方だと思っています。あらゆるものに影響を与えた方だと思っています。平安時代には弘法大師も高野山開山に先立ち大峯山で修行されるなど、宗派を超えてたくさんの方々が、多大な影響を受けておられます。
 また後醍醐天皇が吉野に行宮(あんぐう)を置かれた南北朝時代、天川郷は南朝と大変深い関わりがございました。そのことは、当社が辨財天をお祀りしていることと関係しております。辨財天への信仰は当時全国に広がっており、天川と各地の辨財天社との間には、今で言うところのネットワークがありました。南朝の方々は、そのつながりをお頼りになったのでしょう。天川には、語尾に「にゃー」を付ける方言がありますが、同様の方言は全国各地で見られます。そのことも、天川の持っていたネットワークの広さを証明していると私は思っています。
 続く室町時代には観阿弥・世阿弥らの活躍で、能楽が大成されます。当社には当時からたくさんの能面・能装束などが寄進され、現在は能狂言面30面が重要文化財に指定されております。世阿弥も使用したという「阿古父尉(あこぶじょう)」の能面(重文)、豊臣秀吉公が奉納された唐織の能装束なども伝わっております。
—天川は昔から、各地とつながりを持っていたのですね。
—天川は昔から、各地とつながりを持っていたのですね。
柿坂宮司
 
天川は山深い土地です。それでも多くの方とつながり、またお迎えすることができたのは、里の人のもてなしに、人間的な温かみがこもっていたからでしょう。私はこの温かみこそ、たくさんの外国人観光客をお迎えしている今の日本が、一番大切にしなければならないことだと思っています。
 当社には「五十鈴(いすず)」という、3つの鈴を円でつなげたような、独特な形の神宝(かんだから)が伝わっております。天照大神が天岩戸に籠られたとき、天宇受売命(あめのうずめのみこと)が使用した神代鈴(じんだいすず)と伝えられている神宝で、その形状は、「いくむすび」「たるむすび」「たまづめむすび」という、3つの重要な魂の調和を表しています。神道ではこのように、言葉ではなく、もののありよう自体に教えを込めることが多くあります。天川を訪れる方には、ぜひこの里が持つ温かみと、当社のありようをお感じいただければと思います。
プロフィール

プロフィール

大峯本宮 天河大辨財天社/宮司 柿坂 神酒之祐(かきさか みきのすけ)

1937年、吉野郡天川村に生まれる。
世界各国を回り、南米アマゾンでの生活なども経験。
1966年に天河大辨財天社第65代目の宮司に就任

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