飛鳥寺
蘇我馬子が建立した日本最古の寺院。606年(または609年)に完成した、飛鳥大仏は当時の姿を今に伝える。
明日香村飛鳥682
0744-54-2126
社寺紹介へ今年は聖徳太子没後1400年。聖徳太子の偉業を知るとき、聖徳太子に影響を与え、支え合った女性達がいたことにも気づかされます。
太子との関わりに思いを馳せ、奈良県内に残るゆかりの地を訪ねてみませんか。
聖徳太子の叔母で、日本最初の女性天皇です。推古天皇は即位した翌年、当時20歳と年若い太子を皇太子にしただけでなく、摂政に任命しました。当時日本は大陸を統一した隋との国交調整が急務でした。推古天皇は国際的に通用する国の基盤制度の立案や、仏教興隆政策を太子・馬子と共に作り上げていきました。太子が住んだ斑鳩宮は、外交の窓口・難波津(大阪湾)と飛鳥のちょうど中間にあります。太子はそこから筋違道(太子道)を通り、推古天皇が執政する飛鳥の小墾田宮に通っていたようです。
蘇我馬子が建立した日本最古の寺院。606年(または609年)に完成した、飛鳥大仏は当時の姿を今に伝える。
明日香村飛鳥682
0744-54-2126
社寺紹介へ推古天皇が執政した宮の推定地の一つ。「小治田宮」と書かれた 8世紀末頃とみられる墨書土器が出土している。
明日香村雷(雷丘東方遺跡)
0744-54-5600
(明日香村教育委員会 文化財課)
推古天皇が即位した豊浦宮の推定地。推古11(603)年に小墾田宮に遷るまで政治の中心だった。
明日香村豊浦630
0744-54-2512
聖徳太子の母。欽明天皇と蘇我小姉君の娘で、用明天皇の皇后。用明天皇との間には4人の皇子がおり、聖徳太子は第一子です。『日本書紀』には、皇后が出産予定日に禁中(※)を巡察中、厩の戸にあたった拍子に太子を出産したとあります。太子の名に「上宮廐戸豊聰耳太子」と「厩戸」があるのはこのためでしょう。太子は自分の住む斑鳩宮の東に、宮を建てており(現在の中宮寺跡)、自分が都を離れる際、母も共に斑鳩に連れてきており、太子が母を大切に傍に置いていた様子が伺えます。
(※)天皇の住む宮の中、内裏のこと
かつて欽明天皇の別宮の橘宮があり、穴穂部間人皇后がこの橘宮の厩の前で太子を出産したと寺に伝わっている。
明日香村橘532
0744-54-2026
社寺紹介へ母の穴穂部間人皇后が住まいにしていた宮を寺に改めたと伝わる。現在の中宮寺から約500m 東方にある。
斑鳩町法隆寺東2、幸前1
0745-70-1200
(斑鳩町文化財活用センター)
父・用明天皇の宮の推定地の一つ。太子が斑鳩に遷るまで住んだ「上宮」は宮殿の南の上殿にあったという。
橿原市東池尻
聖徳太子の妃の一人。父は大臣蘇我馬子で、蝦夷は兄に当たります。太子と彼女の間には、長男・山背大兄王が生まれています。山背大兄王は、膳部菩岐々美郎女が産んだ異母妹・舂米女王と婚姻しています。太子と、蘇我氏の血を強く引く山背大兄の一族は「上宮王家」として皇位継承を期待されましたが、古人大兄皇子を擁立する蘇我入鹿と対立し、上宮王家は一族で自害し滅亡してしまいました。歴史書には刀自古郎女についての記述は少ないですが、長野県には刀自古郎女が出家して初代上人となった由緒の寺院もあります。
『日本霊異記』に、太子の妻・刀自古郎女が住んだ「岡本宮」を山背大兄皇子が寺に改めたとある。
斑鳩町岡本1873
0745-75-5559
社寺紹介へ聖徳太子の妃の一人。斑鳩周辺の豪族・膳氏の娘です。4人の妃のうち最も多い四男四女を産みました。法隆寺金堂釈迦三尊像の光背の本像制作の由来が書かれた銘文に、「推古29(621)年12月、太子の母が崩御。翌年正月に太子が病になり、続けて膳妃も床に伏した。妃・王子・諸臣らが病気平癒を祈って像の制作を発願したが、2月、先に妃が、翌日太子が亡くなった。像は、子らが司馬鞍首利仏師に依頼し、翌年に完成した」と太子と妃が亡くなった時の様子が書かれています。
飛鳥時代の土器などが出土していることから、太子と妃が住んだ「葦垣宮」が周辺にあったと推定されている。
斑鳩町法隆寺南3
0745-70-1200
(斑鳩町文化財活用センター)
聖徳太子の妃の一人で、推古天皇の孫。推古天皇はもう一人、娘の菟道貝蛸皇女も太子の妃としており、才長けた甥とより強く関係を深めようとしていた様子が感じられます。中宮寺に伝わる「天寿国曼荼羅繍帳」の銘文には、太子の母・穴穂部間人皇后と太子が相次いで亡くなったことを橘大郎娘が大変悲しみ、「太子が天寿国で往生した姿が見たい」と望んだことを推古天皇が聞き届け、作らせたものであると書かれています。
実物は奈良国立博物館に寄託されており、飛鳥時代の染色・刺繍技術・仏教文化を伝える貴重な宝物として出陳されることがある。中宮寺本堂には複製が安置されている。
橘の女性たちと聖徳太子信仰
「一度に10人の訴えを聴くことができた」「助けた飢人は聖人だった」など、様々な超人的な伝説がある太子は、死後〝聖人・聖徳太子〟として太子信仰の対象となりました。特に藤原不比等の妻で、光明皇后の母でもある橘三千代は熱心に信仰していたようで、太子が建立した法隆寺に三千代の念持仏が伝わっているほか、娘の光明皇后と牟漏女王、孫の橘古那可智なども法隆寺に仏具や堂を寄進しています。奈良時代になって、荒れた宮跡を嘆いた僧・行信が、光明皇后や娘の阿倍内親王に依頼して夢殿を建立し、そこで聖霊会(※)を始めたとされ、太子信仰の地になりました。
平安時代になると、太子は極楽往生した先人として、また、聖人や観音菩薩の生まれ変わりとして語られるようになり、今も極楽往生を求める人々に深く信仰されています。
※聖徳太子の忌日に行われる法要で、現在も太子にゆかりのある全国の寺で営まれる
相原まず、推古天皇は『日本書紀』に「容姿端麗で才能がある」と書かれていますね。推古天皇、聖徳太子、蘇我馬子の3人の役割ははっきりしていました。企画立案の太子と、実行部隊の馬子を天皇が上手く取りまとめていたイメージです。この時代に遣隋使派遣や冠位十二階など重要な国の基盤が作られました。3人の関係がうまくいっていたからこそ、推古天皇による治世が30年余りも続いたのだと考えられます。
太子の母・穴穂部間人皇女は用明天皇の皇后ですが、残っている事績があまり無いため、印象が薄いですね。ただ、息子の聖徳太子、その妃の膳部菩岐々美郎女と3人一緒に合葬されて、お墓に入っています。最初から意図したものかはわかりませんが、古墳の石室は3人が入るように作られています。この時代、追葬の文化はありますが、合葬の例は少なく、珍しいです。聖徳太子と膳部菩岐々美郎女は一日差で、穴穂部間人皇女はその数ヵ月前に亡くなってます。合葬は3人の亡くなった時期が影響しているのかもしれませんが、この3人は本当に仲良しだったんだと思うんですよね。嫁姑問題はなかったんじゃないかな(笑)。
1967 年生まれ。1990 年、奈良大学文学部文化財学科卒業。奈良国立文化財研究所・明日香村教育委員会などを経て、現在奈良大学文学部文化財学科准教授。
相原刀自古郎女は蘇我氏の馬子の娘で、聖徳太子の長男の山背大兄王の母でもあります。刀自古郎女や、推古天皇の娘の菟道貝蛸皇女、孫の橘大郎娘も、記録に残っていることが少なく人物像が想像しにくい妃たちですね。血筋から見ると皇室系や蘇我系で政略結婚的な要素が強いです。ところが膳部菩岐々美郎女だけは、お父さんが斑鳩周辺に拠点を持っていたこと以外に大きな要素がありません。先ほども話したように、太子は他の位の高い妃ではなく、膳部菩岐々美郎女と埋葬されています。太子の前日に彼女は亡くなっていますが、多くの妃の中でも一番身近にいて、聖徳太子が一番愛していたのではないかと想像しています。
相原人に限らず、動物もいますね。動物なら愛犬の雪丸か馬の黒駒ですね。雪丸も黒駒も正史には出てきませんが、雪丸は『達磨寺略記』に登場します。雪丸は人の言葉を話せたり、お経が読めたようです。達磨寺には江戸時代に作られた石像がありますね。達磨寺のある王寺町では現在、マスコットキャラクターとしても愛されています。愛馬の黒駒は太子を乗せて飛翔した等の伝承がありますが、『上宮聖徳太子伝補闕記』、『聖徳太子伝暦』などに登場します。太子が住んでいた斑鳩は、当時の首都・飛鳥の副都心的な位置づけだったのでしょう。聖徳太子がプランナーの役割で、人を動かす部分を馬子に任せていたのであれば、仕事はリモートオフィスでもできた。とはいえ、飛鳥に行くこともあり、そのときは筋違道を通って通勤していました。筋違道は20数キロの道のりです。徒歩とは考えづらい。通勤手段は黒駒だったのでしょうね。
相原飛鳥まで通った筋違道、物部氏の戦いで祈願し、寅年、寅日、寅刻に毘沙門天が出現した伝説がある信貴山、そして王道ですが法隆寺ですね。金堂や夢殿は太子を感じられる場所です。
太子の愛犬と伝わる。慶長12(1607)年の『太子伝撰集抄別要』に登場する「白雪丸」という白い犬がモデルとも。達磨寺境内に安置されている石造雪丸像は町の有形文化財で、元旦に鳴けばその年は豊作に恵まれるという伝承も。
社寺紹介へ平安時代初期に成立した『上宮聖徳太子伝補闕記』以後の文献に数多く登場する太子の愛馬。空を飛び、富士山の頂上を数日で往復したなどの伝承がある。中宮寺跡の南にある駒塚古墳は黒駒の墓と伝わっている。