新型コロナウイルス感染症が世界中に大きな影響を与えています。これまで当たり前だったことがそうでなくなり、またその逆も然り。
不慣れな生活に困惑する日々ですが、「病の流行による社会の変化」は、歴史上多くの地で繰り返し起こってきました。
古代の日本も例外ではありません。人々は疫病とどう向き合ったのか。それは、現在に伝わる歴史書や社寺の由緒、さまざまな出土品などから垣間見ることができます。
例えば『古事記』『日本書紀』に疾病が登場するのは、崇神(すじん)天皇の時代。『日本書紀』では「5年に、国内に疾病多く、民死亡者有りて、且大半(なかばにす)ぎなむとす」と記され、崇神天皇5年に、国の人口が半減するほどに疫病が蔓延したことが読み取れます。この惨状に際し、疫病平癒を願った崇神天皇は、神様の祀り方を考え、占いをし、夢の中で聞いたお告げを実行するなど、必死で手を打ったのでした。
夢のお告げに従い崇神天皇が成した疫病平癒への道のり
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宮殿に二柱の神を祀る。しかし二柱の神の力がどちらもあまりに強く、別々に祀ることに
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占いをしてみると、とある神様が倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)に乗り移って「自分を祀ったら疫病がおさまる」と告げる
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その通りにする。しかし疫病は収まらず
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夢に大物主神(オオモノヌシノカミ)が出てきて「私の息子の大田田根子(おおたたねこ)に祀らせたら治まるだろう」と告げる
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大田田根子を見つける。再度占いをすると「他の神々も祀れ」と出る
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大田田根子が大物主神を祀る。同時に他の神々も祀ったところ、疫病が収まった
疫病の終息を望む心は今も昔も変わらない願い
大直禰子神社(おおたたねこじんじゃ)
元は大神神社の神宮寺である大御輪寺。現在は大神神社の摂社「若宮さん」として知られる。
桜井市三輪字若宮
0744-42-6633(大神神社社務所)
墨坂神社(すみさかじんじゃ)
疫病鎮圧のため創建され「赤盾八枚・赤矛八竿をもって墨坂の神を祀り」と記紀に記される。
宇陀市榛原萩原703
0745-82-0114
大阪山口神社【逢坂】(おおさかやまぐちじんじゃ【おうさか】)
令和2(2020)年5月、墨坂神社とともに病気平癒の祭祀を行い、拝殿に黒盾を納める。なお同名の神社が同市穴虫にもある。
香芝市逢坂5-831
0745-77-1700(二上山博物館)
神代から大物主神を祀る桜井市の大神神社で、大物主神の子・大田田根子(おおたたねこ)を祭主とした祭祀(さいし)が行われるようになったのは、この疫病からです。
その他にも疫病平癒神話ゆかりの地が伝わっています。大田田根子を祀る大神神社摂社の若宮社・大直禰子(おおたたねこ)神社。崇神天皇によって、
宮中内に天照大神と倭大國魂神(ヤマトノオオクニタマノカミ)がともに奉斎(※1)されているのは恐れ多いとして別々に祀ることとし、以来、倭大國魂神が祀られているのが大和神社。
また『古事記』に「墨坂神に赤色の盾矛(たてほこ)を祀れ、大坂の神に黒色の盾矛を祀れ」という内容の疫病平癒に関する記述(※2)があり、
赤色の盾矛が祀られたのは墨坂神社、黒色は大坂山口神社だと推定されています。
医学等の知見が格段に少ない古代において、祈ることは疫病との真剣な闘いです。
奈良の社寺には、記紀(※3)に綴られるほど古来から行われてきた疫病平癒の祭祀があり、現代に伝えられています。
一日でも早く疫病の流行を終息させ、人々が健康で快活な生活を再開できるようにと願う切実な気持ちは普遍なのでしょう。
※1 神仏をつつしんで祀ること。
※2『日本書紀』では『古事記』と異なり、疫病平癒後に行われたと記される。
※3『古事記』と『日本書紀』の総称。
奈良時代の疫病の流行と発掘から垣間見る 元祖「新しい生活様式」
写真1(左)/二条大路濠状土坑から出土した食器
写真2(中)/平城京で出土した土馬
写真3(右)どうにも憎めない表情の人面墨書土器(写真提供/奈良文化財研究所)
華やかな印象の天平時代は、疫病の時代でもありました。天平7(735)年の疫病は太宰府で発生、致死率が国民の25%に至る事態。
天平9(737)年には都でも感染が広まり、藤原不比等の息子である藤原四兄弟の相次ぐ死など政治の中枢を直撃、国は機能不全に陥ります。
恐らく天然痘と見られるこの疫病に加えて天災や内乱にも見舞われ、聖武天皇(しょうむてんのう)は遷都を繰り返しました。その中で「新しい生活様式」とでも呼ぶべき習慣も生まれます。
奈良文化財研究所の神野恵氏によると、「出土する皿のサイズが奈良時代後半になると大型食器が減り、小型食器中心になります。
これは感染予防のために大皿での盛り付けを避けたと考えられます。また平城京で朱雀大路に次ぐメインストリートである二条大路の路肩にあたる場所から、ほぼ完全な状態の大量の食器が出土しています。
当時は消毒などができず、感染防止のために使用済みの食器をまとめて廃棄したものだと思われます(写真1)。今回の新型コロナウイルスが引き起こした社会状況を目の当たりにして、ようやく説明がつきました。」
ほかにも疫病対策として、読経や祈祷、租税(そぜい)の免除、湯薬の支給などの施策が講じられました。
高齢者や困窮者などに対して朝廷が米や布などを支給する「賑給(しんきゅう)」も行われています。
疫病に関わる出土品はさまざまです。「土馬(どば)」(写真2)は、疫病神の乗り物とも言われ、疫病が拡散しないようにわざと足をこわして水に流すなどとした説もあります。
「人面墨書土器(じんめんぼくしょどき)」(写真3)も、器に墨で疫病神や鬼の顔を描き、息を吹き込んで水に流すという風習でした。
平城京でもたくさん出土しており、疫病神を追い出そうとしたと考えられています。
また、外部から入ってくる疫病を防ぐための祭祀「道饗祭(みちあえのまつり)」は、平城京羅城門の少し東にある路上で行っていたことが発掘により判明しています。
いわば古代の感染予防法だったのでしょう。
今につながる行事
奈良時代以前、藤原京の時代にも疫病が流行。当時すでに疫病除けとして行われていた祭祀が現在も行われています。 『続日本紀(しょくにほんぎ)』に記される追儺会(ついなえ)は現在の節分の行事につながっており、この頃に始まったと記されています。 大神神社と狭井(さい)神社の鎮花祭(はなしずめのまつり)、率川神社の三枝祭はともに国家の祭祀として「大宝律令」で規定されていました。
率川(いさがわ)神社「三枝祭(さいくさのまつり)」
毎年6月17日に行われる疫病除けの祭典。巫女がササユリの花を手に舞う神楽がことのほか美しい。
奈良市本子守町18
0742-22-0832
社寺紹介へ奈良の薬で病に抗(あらが)え
推古天皇19(611)年5月5日に現在の宇陀市で薬狩りを行った記述が『日本書紀』にあります。日本初の薬草採取の公式記録であり、宇陀はわが国の薬の発祥地と言えるでしょう。
奈良にルーツを持つ製薬会社が多くあるのもそのためです。
修験道の祖・役行者(えんのぎょうじゃ)には、疫病に苦しむ人々のために吉祥草寺に大釜を据え、陀羅尼助(だらにすけ)を施薬したという伝承があります。
医学を学問として学ぶ道場としての側面を持つ當麻寺中之坊には、陀羅尼助を作っていた釜が残ります。
全国から薬草を買い求め、疫病に苦しむ人々を救おうとした光明皇后は、聖武天皇が崩御(ほうぎょ)した後に、60種類の薬と、その薬名や数量などを記録した『種々薬帳』を東大寺に献納しました。
奈良の社寺と薬の関わりから、疾病と対峙してきた歴史が伝わります。
写真(左)/『種々薬帳』
写真(上)/『種々薬帳』に記されている薬物「大黄」。薬帳、大黄共に正倉院宝物として残るもの
疫病退散と奈良大和四寺巡礼
祟りを成し疫病を広げた霊木に疫病を封じる力のある十一面観音の形を与えご本尊とした長谷寺。空海が唐より持ち帰った厄災を除き願いが叶うと伝わる如意宝珠が埋蔵される室生寺(むろうじ)。 鍾馗図(しょうきず)(※4)を疫病除け札として本尊の厄除のご加護と合わせて人々から恐怖を払拭した岡寺。 呪詛占術(じゅそせんじゅつ)により疫神を鎮めて文殊の化身と崇(あが)められた安倍晴明の生誕地とされる安倍文殊院。 疫病の恐怖から人心を加護した歴史をもつ四寺を巡る『奈良大和四寺巡礼』は、巡礼衣(おいずる)(無料)にご朱印(各寺院300 円)をいただき、祈願して護摩木を奉納(先着1万名)するというもので、 満願のおりに「如意宝珠の満願朱印」を頂戴することができます。
※4 悪疫除けとして祀られる図。岡寺には『鍾馗の版木』および『悪疫除け祈祷札の版木』が江戸時代から残されている